長くて途中で終わってしまった、ドミニク・ペカットの続きを書こうと思います。

前編はこちらですニコ

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1838年、Francois LUPOTがなくなり、彼のアトリエだったところを引き継ぎます。

このあたりから、彼の弓職人 人生の黄金期に入りますまじかるクラウン

28歳でした。黄金期早い!

早い時期から、音楽家やほかの職人からの評判も良く、よく売れたみたいです。

 

ドミニクには弟Francoisがいるのですが、

フランソワも1841年にはパリに来て、同じ工房で仕事をします。

この時期に作った、コラボ作品が今も残っています。

 

 

1845~46年あたりからは、下の図のようなヘッドが見られるようになります。

 

 

 

イラストが下手で、すみません。

ヘッドの裏側、というのでしょうか。

ここに面取りが二つあります。

Leonard Touteもこのタイプを作りました。

LAFLEURやN.MAIREもこの型を作り、当時の流行だったようです。

 

絶好調のドミニクですが、1847年にパリを去り、故郷のミルクールへ戻ります。

37歳です。

戻ってからは、パリにいたころよりも製作数はぐっと減るようです。

ただ、ヴィヨームとのつながりは切らず、弓の評判も相変わらずよかったみたいですニコニコ

家の財産を相続し、母の残した家に住みます。

父が所有していたワイン畑も継ぎ、

弓製作と同時に、ワイン造り、金貸しもしています赤ワインぶどうコインたち

弟フランソワも一緒に暮らしていたのですが、この時期のコラボ作品は、残っていないようです。

けっして関係が悪かったわけではないのですが、なぜでしょうね??

 

弟は、1852年に、再びパリへ出ますが、

1855年に亡くなってしまいます。

まだ34歳でした。

兄ドミニクとは、11歳も違うみたい。

弟がパリへ発ったのち、ドミニクもミルクールの中で一度引っ越し、

1874年にそこで生涯を終えます。

彼がなくなった後、たくさんのワインが家に残されていたそうです。

 

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あとは、本に弓の比較も書かれてありました。

フランソワ・トルテとドミニク・ペカットの弓を比べると、

どちらも優れているのに、作り方の違いがはっきりと際立っていて、面白いそうです。

トルテは、弓を作るときによく寸法を測り、重さや太さなどあらゆるところを計算しつくして作ります。

なので、同じ時期に作った弓には、似たような形のものが多いです。

それに比べて、ドミニクはほぽ勘とイメージで作っていったようで、

弓の形・バランスに統一性があまりない様子。

ばらつきがすごい、と言っても、クオリティはそれぞれ良かったようで、

当時も、”ドミニク・ペカットの弓が使いにくい”、と噂されたことはありません。

トルテもペカットも、どちらもすごいですね。

 

ペカット兄弟がコラボレーションしたかしないかについて、何でわかるんだろう?

と思う方も、いるかもしれません。

判断材料は、形の特徴を知らなくても、いくつかあります。

・フロッグとボウ本体の接地面の形が合っているか

また、形があっていたとしても、

・ねじを回すときに不自然なぐらつきがある、またはねじを回すのがきつすぎる

など、他の弓のフロッグとボウを合わせると、いろんな不都合が出てきます。

特に、形が違うと、もう一目瞭然ですね。

ねじのきつさ云々は、ねじ交換しても同じことがたまに起こるので、

簡単にこれだけでは、判断できませんが・・・イヒ

 

最後に、ペカットの家系図です下矢印

 

あ、(Millan)は、情報の出所がミランさんの本ということで、ただのメモです。

 

 

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