【日記】フォーレvs柑橘類vsオタマトーン | カラフルトレース

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明けない夜がないように、終わらぬ冬もないのです。春は、必ず来るのですから。

ふざけたタイトルだとお怒りかもしれないが、これ以上的確に筆者の年度末を言い表すことはできない。

筆者(瀬戸内育ちのキュートな柑橘類)は年に一度、大学時代のサークルで世代間交流演奏会を開いている。
3月はほとんど演奏会に時間を費やしていた。練習の突貫工事である。
実力不相応の(わたしの選曲はいつもそうだが)フォーレ、そしてホール・ニュー・ワールド。
フォーレはどうにもならなさすぎて、滑走屋にも友人の結婚式にも楽譜を持参していた。
こういう営みが常態化し、荷物の多いオタクになるのであろう。

先に結論をお伝えしておくと、本番は史上最悪の大事故となった。
(せっかく共演者に恵まれたのに申し訳ない!)
原因は様々考えられるが、もう終わったことだ。喉元過ぎれば熱さは忘れる。
したがってこの記事を読んでも、演奏の秘訣は何も得られない。

🐸

相対的に有益な方からお話しよう。
「ホール・ニュー・ワールド」と聞いて、どのような編成が思い浮かぶだろうか。
恐らく、胸に去来する想定解のほとんどがハズレで、今回は「オタマトーンとピアノ」であった。

オタマトーン。
そう、あのオタマトーンである。

卒業生の演奏者を確保するべく、毎年各所に根回しを欠かさない筆者だが、その過程で共演を打診されることも、ないわけではない。
今回はチェロ弾きの先輩に「出ましょう」と圧をかけていたところ、伴奏を依頼された。

僕はオタマトーンを演奏するから、と。

ヴァイオリンとヴィオラの二刀流は珍しくないが、チェロとオタマトーンの二刀流に遭遇したのはさすがに初めてだ。
往年の我がサークルではオタマトーンがそこまで珍しくなかったと聞くが、その人達は何の楽器と兼ねていたのか、もし歴史を紐解ける方がいたら教えて欲しい。
そもそも、近年こそ正統派音楽サークルみたいな綺麗なツラをしているが、かつてはリコーダーがいて、バンドネオンがいて、電子チェンバロがいて、アコーディオンがいて、鍵盤ハーモニカが跋扈していたサークルである。

オタマトーンで動揺しているようでは修練が足りないのだろう。

精神面はともかく、わたしはオタマトーンへの知見が乏しく、このままでは不釣り合いな音楽を生み出してしまう未来は必至であった。

オタマトーンにサイズ違いがあること。
デラックスではない標準サイズでは、三種類の音高を切り替えられること。
音量が想像以上に心許ないこと。
アンプ代わりにスマホのアプリに接続できること。
でもそこまで音量は変わらないこと。
ビブラートをかけられるくせに、減衰ができないこと。

全て、知らなかったのだ。

もし今後、ピアノでオタマトーンの伴奏を担当する機会がある人は、可能な限り弱音の練習に励んでいただきたい。
オタマトーン独特の歌唱性を損ねず、ビブラートを活かすには、ピアノが可能な限り自我を抑え、やさしく下支えできる音量にまで落とす必要がある。
ビブラート、と簡単に言うが、音程の当たり判定が異様に狭いため、匙加減を間違えるとビブラートのつもりがトリルと化してしまう。
そんなに繊細だが演奏前のチューニングは不要らしい、冷静に考えれば当然なのだが。

筆者は大学入学以来、鍵盤ハーモニカが主でピアノは副であったため、技術的には子犬に毛が生えた程度で(かわいいね)、弱音を使いこなせるほど指を鍛えられておらず、かなり苦労した。
しかも「ホール・ニュー・ワールド」という曲、どうしても古き良きオタクは「インドがわからない」を想起してしまうので、練習中に集中が削がれることも珍しくなかった。
だがこれは、何一つオタマトーンの責任ではない。



とりあえず不慣れなオタマトーンの扱いには苦心したが、最終的には想像以上の好評を博したので胸を撫で下ろしている。
もちろん、全てはオタマトーン弾きの先輩の手腕によるものだ。
万が一、読者の中にオタマトーン伴奏有識者がいらっしゃったら、後学のために音量コントロールのノウハウを教えていただきたい。

🐸

ここから先は、本当に何も収穫がない呪詛だ。
フランス音楽に愛憎を抱える者のみ読み進めてほしい。

筆者の好きな作曲家を挙げると、フォーレはかなり上位に来る。
その後押しとなったのが、我らが山縣美季の存在なのは間違いないが、そうでなくとも室内楽を嗜んでいれば、心惹かれる機会は多い。

美しく、内省的で、威圧的な派手さはなく、だが秘めたる情動が玄妙な和声から滲み出る、なめらかな夜の響き。
哲学者ジャンケレヴィチが、ショパンとフォーレとサティの音楽を論じた書に「夜の音楽」の名を与えたのも納得である。

今回取り組んだピアノ五重奏第1番の1楽章は、波間に漂う光のようなアルペジオと、揺蕩う弦の旋律が、得も言われぬ淡彩の艶めかしさを描き出す。



何年も前にこの曲の冒頭を耳にしてからというもの、スーラの筆による水辺の景色みたいに、繊細な美しさが心を掴んで離さない。

というのは全て、「聞く側」の感想であった。

このフォーレという作曲家、いざ弾こうとすればかなり難儀な相手なのだ。

人の手はそんな器用に広がらないし、音の組み合わせを直感だけで捌けない。
弾きにくい音型に限って、legatoの指示がある。
調性も正直納得がいかない。転調するならもっと毅然としてほしい。
夢のように憧れた妙なる調べは、多大なる犠牲の上に成り立っていた。

実は2年前の夏、同じフォーレの「エレジー」を伴奏したことがある。
確かに楽勝ということはなかったが、当時はさほど「この曲者がよォ!」と思わなかった。



エレジーは若きフォーレの手による作品、一方ピアノ五重奏は還暦を過ぎて生み出された曲である。
年齢とともに晦渋さを志向した、とされるフォーレだが、この2曲を比べると「なるほどね」と言いたくもなるものだ。

アルペジオに惚れ、アルペジオに泣かされたと言うべきか。
耳で聞く印象を頼りにすれば、楽譜を見て「そんな音だったんだ」と驚き、譜面を見て音を解すれば、鍵盤に手を乗せた時に「どういう運指のつもりやねん」と憤怒する。
これ本当にどういう運指のつもりでフォーレが書いているのか、ご存知の人いませんか?
最初の方、あまりにも理不尽に思えて、わたしの脳裏にはラフマニノフ棒(※下記動画参照)の動画が浮かんでいたよ、まったく。



あとこの曲、一応ニ短調ということになっていて、最後はニ長調に転調しているつもりなんだろうけど、わたしあの終わり方がニ長調なのは若干、異論を呈したいですわよ。

あれ……イ長調じゃないんか……?

しかもニ長調に転調したの、譜面上はそういうことになっているんだろうけど、転調前も転調後も臨時記号祭りが開催されているので、明瞭な変化とは言い難い。
もちろん、あの曖昧なうつろいに美しさが宿っているので、どうしようもないのだが。

譜読みに苦しみながら、急に納得した逸話がある。
「バラード」というピアノ曲をご存知だろうか。他ならぬフォーレの名曲で、お察しの通り、山縣美季さんの十八番のひとつだ。



かのフランツ・リストは「バラード」の楽譜初見時に、こう言い残したとされている。
指が足りない、と。

リストを知る者であれば違和感を持つだろう。
あれだけマゼッパしてカンパネラしていた人が指が足りなくなるほど、苛烈な曲ではないからだ。

はたしてリストの真意は、運指そのものというより転調への戸惑いであったらしい。
確かに「バラード」は美しい曲だが、その美しさは万華鏡と性質を共にしている。
光が当たるたびに、映し出される色が変わり、晴れの日の川面を眺めるような心地よさがもたらされる。
あれは、微塵も気の抜けない転調の産物だったのだ。

本当に烏滸がましいが、人生で初めてリストに共感した


長々と文句は垂れたが、総合すれば長年憧れた曲に取り組めた喜びと、あの彩雲のように美しい世界に浸れた快感が上回っているので、やってよかったのは間違いないし、後悔はない。

ただ自分の技術と嗜好を考慮すると、フランス音楽は演奏するより鑑賞に徹する方が、より高い純度で曲のもたらす「美」を堪能できる気もしてしまう。

フランス音楽特有の、一歩引いた客観性というか冷たさのようなものも、事を厄介にしている。

どれほど自分の手で「美」に耽りたくとも、ひとたび演奏する側が俯瞰を忘れ耽溺に陥ると、途端に緊密さが損なわれ、ただの軟派な塊が世に生み出されてしまうのだ。

好きだからこそ、次にフランス音楽に取り組む時までに、自分の側の強度を高めておかねば。
そう心に決めながら開いていたのは、ルクーのヴァイオリンソナタの伴奏譜であった。

「ベルギーはフランスじゃないからヨシ!」(室内楽現場猫)