最澄を知る36 天台宗の祖、天台智顗はどんな人?②
天台山に登った智顗は、最も美しい場所に「修禅道場」を建てました。そこは、子どもの頃に夢に見た場所だったそうです。
翌年39歳の時、天台山の最高峰、華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていました。
すると、雷がなり、大地が揺れ、恐ろしい情景が繰り広げられました。
しかし、智顗は、心を動かされることなく、明けの明星を見るときには、天台仏教の完全な教え、深い真の悟りに至ったのです。
この悟りを得たことから、「中国のお釈迦様」とよばれるようになりました。
翌年39歳の時、天台山の最高峰、華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていました。
すると、雷がなり、大地が揺れ、恐ろしい情景が繰り広げられました。
しかし、智顗は、心を動かされることなく、明けの明星を見るときには、天台仏教の完全な教え、深い真の悟りに至ったのです。
この悟りを得たことから、「中国のお釈迦様」とよばれるようになりました。
48歳の頃、陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。
永陽王の度重なる願いにより、智顗は、都の建康にある宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典など、たくさんの説法をしました。
皇帝は高僧に難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、もはや仏のような方だと皆口々にいい、敬いました。
やがて50才の時、『法華経』を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を完成させます。
54歳の時、随が天下統一し、煬帝(ようだい)は智顗を招きました。
このとき、智顗は不思議な因縁を感じて、熱心に仏教に帰依する煬帝に、大乗菩薩戒を授けました
皇帝は「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
これから智顗(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)と称されるようになりました。
その後、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説き、先の『法華文句』と共に天台三大部ができあがりました。
おそらく最澄もこれを熱心に学んだと思います。
58歳で、晋王煬帝(ようだい)の願いで再び揚州に行きます。
このとき、在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く『維摩経』の解説本を献上しました。煬帝は非常に喜んだそうです。
*法華経と維摩経は、聖徳太子も非常に重んじたお経です。
(↓在家で深い悟りを開いた維摩居士)
その後、智顗は天台山に帰りました。昔の道場は荒れはてていたそうですが、懐かしい山野が智顗を迎えてくれました。
ぞこに僧たちが続々と集まってきて、修行道場が再び動き出しました。
60歳の時、煬帝に何度も要請されて、下山を決意しましたが、山門のところで病気になり、臨終が近いことを悟りました。
智顗は、即身仏となられ、今も天台山にまつられています。
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永陽王の度重なる願いにより、智顗は、都の建康にある宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典など、たくさんの説法をしました。
皇帝は高僧に難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、もはや仏のような方だと皆口々にいい、敬いました。
やがて50才の時、『法華経』を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を完成させます。
54歳の時、随が天下統一し、煬帝(ようだい)は智顗を招きました。
このとき、智顗は不思議な因縁を感じて、熱心に仏教に帰依する煬帝に、大乗菩薩戒を授けました
皇帝は「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
これから智顗(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)と称されるようになりました。
その後、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説き、先の『法華文句』と共に天台三大部ができあがりました。
おそらく最澄もこれを熱心に学んだと思います。
58歳で、晋王煬帝(ようだい)の願いで再び揚州に行きます。
このとき、在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く『維摩経』の解説本を献上しました。煬帝は非常に喜んだそうです。
*法華経と維摩経は、聖徳太子も非常に重んじたお経です。
(↓在家で深い悟りを開いた維摩居士)
その後、智顗は天台山に帰りました。昔の道場は荒れはてていたそうですが、懐かしい山野が智顗を迎えてくれました。
ぞこに僧たちが続々と集まってきて、修行道場が再び動き出しました。
60歳の時、煬帝に何度も要請されて、下山を決意しましたが、山門のところで病気になり、臨終が近いことを悟りました。
智顗は、即身仏となられ、今も天台山にまつられています。
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