最澄を知る35 天台宗の祖、天台智顗はどんな人?① | 絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

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最澄を知る35 天台宗の祖、天台智顗はどんな人?①

 最澄は、エリート国家公務員になったのに、それを捨てて比叡山に籠りました。すさまじい願文を書いて。
そして、おそらくは地方豪族だった父から、鑑真が持ち帰ったたくさんの経文を借りてもらい、色々な仏典を学んだと思われます。

 その中で、最澄は天台の教えが本当に人を救うものだと確信しました。最澄が法の師と仰いだ天台智顗はどんな方で、どんな教えを説かれていたのでしょうか?

高祖天台智者大師
 智顗は、日本に仏教が伝えられた年に、中国荊州で生まれました。

生まれたとき、家が輝いたので、「光道(行動)」と呼ばれました。
生まれたときから、抜きんでた才能があり、7歳の頃からお寺に通い、観音経を一度聞いただけで覚えてしまったそうです。

17歳の時に、国が滅び、大師は親族と共に流浪することになります。
18歳の時、出家に反対だった両親がなくなったので出家し、「智顗(ちぎ)」と名付けられました。

23歳の時、当時有名だった、慧思(えし)禅師に入 門を許されます。

禅師は「お前とわたしは昔インドでお釈迦さまの『法華経』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、喜んだといいます。
智顗は、法華経の「四安楽行」という修行を教えられ、修行14日目に、深い悟りを得ました。
慧思(えし)禅師は、これを喜び、「私とお前しか味わえない高い境地である」と絶賛しました。

ちなみに、この慧思(えし)禅師は、転生して日本の聖徳太子に生まれ変わり、「法華経」を広めたと中国の書物に書かれています。

鑑真が日本に来たのも、慧思(えし)禅師の転生の地を見ようとしたからだという説もあります。

30歳になった智顗に慧思(えし)禅師は、南京での布教を命じます。
智顗は、27人の弟子を連れて、瓦官寺(がかんじ)に住み、説法しました。
智顗の説法は当時の皇帝宣帝(せんてい)が家来たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほど素晴らしいものでした。

その名声を聞いて、年々続々と弟子が集まりましたが、悟りを得る弟子が逆に少なくなっていると気づき、8年の布教を終えて、天台山で修業をすることに決めました。

38歳の智顗を皇帝は勅命で止めましたが、決意は揺るがず、天台山に入りました。