最澄を知る32 延暦寺横川エリア
円仁
円仁とはどういう人でしょうか?
第3代天台座主。 慈覚大師(じかくだいし)
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
幼いころ~青年期
栃木県で壬生(みぶ)氏の次男に生まれました。その年は桓武(かんむ)天皇が都を長岡京(ながおかきょう)から、京都に移した年でした。
早くに父を亡くし、母と兄に育てられた円仁は九歳のとき、栃木県の大慈寺の高僧、広智(こうち)に預けられます。
広智は、円仁を比叡山に連れていきます。天台宗を開いて五年目の最澄(さいちょう)に、円仁を弟子(でし)にしてもらうためでした。
最澄のもとで円仁は、厳しい修行(しゅぎょう)に励み、21歳で得度(とくど)。その二年後、奈良・東大寺(とうだいじ)で具足戒(ぐそくかい)を受け、一人前の僧侶(そうりょ)になりました。
24歳から最澄について関東に布教に回りましたが、29歳のとき、最澄は一心三観(いっしんさんがん)の妙義(みょうぎ)を円仁だけに伝え、亡くなりました。
布教期
しかし、学問僧として抜きんでていた円仁は、6年目で請われて比叡山を下り、布教を始めます。
都で法華経を講義し、最澄との約束であった、東北の方まで布教の旅に出ました。布教活動は全国に及び、現存の由緒寺院は六百カ寺以上を数えています。
最澄の目指した比叡山仏教を受け継ぎ、それを全国に布教した信念と情熱の人・円仁は、誰にも好かれる実に誠実温厚(せいじつおんこう)な人だったそうです。
円仁が布教活動から比叡山に戻った40歳のころ、重い病気にかかり、死をも覚悟していました。
そのとき最澄が念願されていた、法華経の写経を、六千部を目標に行いました。これが如法写経(にょほうしゃきょう)の始まりです。
写経は古くから、、経典(きょうてん)の持つ不思議な力を授かる、尊い修行でした。
円仁は、ここでも夢を見て、天から与えられた妙薬(みょうやく)で元気を取り戻しました。
後にこの写経を収めたのが、、横川の根本如法堂(こんぽんにょほうどう)です。
入唐の困難を超えて
円仁は、病後に師最澄の夢を見ました。
最澄は「天台教学(てんだいきょうがく)の心髄(しんずい)と密教(みっきょう)を伝えなさい」と告げました。
そして3年後の45歳のとき、円仁は最後の遣唐使(けんとうし)の一員になりました。
しかし、希望する天台山行きの許可が下(お)りず、円仁は長安を目指す遣唐使の一行と別れ、弟子二人と聖地五臺山(ごだいさん)を巡礼します。
その後、長安に入り金剛界(こんごうかい)、胎蔵界(たいぞうかい)などを受法。空海よりも新しい密教を学びます。
併(あわ)せて新しい仏典(ぶってん)、曼荼羅(まんだら)を集めて、帰国に備えました。
ところが、この時、唐では、武帝の仏教弾圧が始まりました。
「仏教の僧尼はすべて還俗(げんぞく)せよ、寺院・仏像・経巻はすべて焼き払え」という勅命が下されます。
円仁も恐るべき惨状を目の当たりにし、危険な状況にも遭遇しますが、必死に守り抜いた仏教書を携え、ようやく長安を離れ、帰国船を得て九州・太宰府(だざいふ)に着いたのでした。
その内容は仏教のみならず政治・制度・文物・民族などに及び、貴重な資料です。
比叡山に戻る
持ち帰った経典は584部802巻に及び、金剛(こんごう)、胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などの図像法具(ずぞうほうぐ)は21種もあったそうです。
仁明(にんみょう)天皇はこの功績(こうせき)をお喜びになり、円仁を
は勅旨(ちょくし)によって、初の天台座主(ざす)に任命します。
第三世天台座主に就くや円仁は、結縁潅頂(けちえんかんじょう)や菩薩戒(ぼさつかい)を天皇、皇族だけでなくあらゆる人々に授けます。
その数は数万人に及びました。
最澄滅後、その志を継ぎ天台宗をあまねく広めた円仁の生涯(しょうがい)は、71歳で閉じられました。
そして没後二年、その死を悼(いた)んだ清和(せいわ)天皇により、
最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)、円仁には慈覚大師(じかくだいし)という、ともに日本で初めての大師号(だいしごう)が贈られたのでした。