スヌーピーはみんなが知っている犬だ。しかし漫画を読んだことのない人が結構いる。四コマまんがってことを知らない人も同様だ。
スヌーピーはビーグルだ。そのビーグルらしさだが、ピーナッツの始めあたりではまぁ納得いく絵も、次第に、ある時期を境に決定的にビーグルらしさを放棄して、今日の姿になる。
学生の時期かなりの冊数を持っていたものを引っ越しの際すべて友人に譲って以来。先日、本屋でチラリと読んだがやはりおもしろい。何度思い返しても飽きない。登場人物がみな愛しい。
スヌーピーがいる世界に生まれてよかったと、つくづく思う。

スヌーピーにはジャズが似合う。
その内容にはシュールな独り言が常につきまとうからだろうか。
スヌーピーにはブルースも似合う。
どことなく物悲しい気配が、漂うまんがだ。
デビッド・ベノアはスヌーピーの大ファンで、コレクションは大人より大きなぬいぐるみが目玉だ。
何事であれ、ファンとは多大な労力と時間、金銭を掛け、それらを惜しまないばかりか、喜んで捧げる者達のことだ。
残念ながら僕はそれ程のファンではない。
スヌーピーのグッズは、友人に貰ったキーホルダーだけであり、まんが以外に自分で何かを買おうと思ったことがないのでは、ファンとはいえない。ただ、好きなまんがのひとつというだけのことだ。

スヌーピーは仰向けに赤い屋根に寝そべり独特の論術で哲学し、ある時は歴戦のパイロットになり、またある時はバンカーでサンドウェッジを振り回し、だいたいにおいて空腹である。
鳥語を解し、奇妙な家族があり、人間の友人達に辛辣であるが、それは信頼の裏返しだ。
その友人達は、日常の姿にこそ人間らしさが溢れているのだと教えてくれる。
アクション映画のような起伏ではない、それは何げない日常のワンシーンから心の動きをこぼさぬように拾いあげ、優しくおし広げられた、手篤く護られた夢の物語だ。

学生の時期、東京の大学で獣医になる勉強をしている先輩の元を訪ねた。
そこにはたくさんのスヌーピーたちがいて、僕はすぐに彼等となかよしになった。
するとそのたわむれを見つめる先輩の瞳に深い影が差し、僕は彼等の命がどのようにして終わるのか理解した。そのことを、五年ほど昔に綴ったものを、徹底して推敲した。
永遠の名犬に。



* * * * *



スヌーピーのおもいで


スヌーピーは
チャーリーが手をうてば
しげみを嗅いで飛びこえる
チャーリーがものを書けば
悩ましそうに眉をよせる
チャーリーがひざまずいたら
しろめを剥いて駆けあがり
消毒のにおいただよう
スヌーピーはうすい陽射しの
あおじろいキャンパスにおにあい

木枯らしが火を立てる
焼却炉のコンクリートにこしかけ
チャーリーがこっちを見ている
渡り廊下の影がふと足どめた
ゆがんだガラスの
スヌーピー
プラスチックの数字が
くびにぶらさがっている
いらないなまえの代わりに
それをだからいまはまだと
きみはGパンにつっこんで
うつむいた
だのに
見上げるスヌーピー
その瞳の空は果てない

教えておくれ、チャーリー
耳をすませば、スヌーピー
きみの知ってるこれまでから択んで
おなじ屋根の下でくらした
かごの鳥のふるまいと
身勝手な猫のゆくすえを
息は吸われたのか
それとも吐かれたのか
よぎった羽根のはばたきや
爪にはさまったうろこのかたち
ぜんぶきみの冷たいせなかの汗が
こごりかためた
これまでのぼくらのもう一度
あのベッドに横たわれば
やり直せるのかと

きみのさくらいろに塗られた道で
チャーリーはいつも口ごもっていた
スヌーピーはたまにそっぽを向いた
おまえ達の生活をどこから眺めても
ベートーベンと野球帽でことたり
あるいは恋と、孤独で
振り子のように
タクトのように
空想の空で
ひかりにさらし
かぜにあらわれ
泣いたり、笑ったり
ねむりはそんなおまえたちをいつか
あのアデンへとたどり着けるだろう
ちいさなしっぽが土に刻む

ねぇ、チャーリー
こんなにも風の強いおもいでは
いつか誰かの嫌がったって剥いた胸に
刻み込まなくてはいけないの
とき折りひかる
ますいの効いたあの夏
噴水のくだけるかがやき
錠剤ひとつぶ落とす
うたがいの海
駆けてゆく
おまえとぼくが
だきあって眠りこんだ日々を
教えてくれ、チャーリー
スヌーピーたちは
ねむり
くらい
幸せだったと
スヌーピーたちは
はしり
まぐわり
幸せだったと
言ってくれ、チャーリー・ブラウン
いまも空にはおまえの
においが満ちているからと
ここは、いつだって楽園なんだと

屋根にあおむけ
キャンパスのあちらこち落ちる
ポプラの影に憩うスヌーピー
いまも誰にもなつっこい
冬の日だまりのぬくみ
窓ごしに見戸惑うチャーリー
そのぬいぐるみの手をして
黒目の大きなかけぬけに
白衣の重ね着
チャーリーは舌にのせて呟く
シュルツの指先で消しゴムをかけられ
いかれなかった未来が



 書簡


夢の径がいくつかに枝わかれして
闇は星運きに尋ねられるくらい澄んでいたから
どこに昇れば神さまに会えるのか思いあぐねた
うまれ始めた虹をいくつか過ぎる夢
きのうの歌を唄う夢
大気をよく知る樹々のものに還る
乾きの奥を進む水はささやく

目が覚めてからもよろこびに包まれたまま
もうこれ以上考えられぬからと考える
何故か人は何故を
静止画のように思って太陽を見ている
そんな男のおごり
退屈そうな鴉につきまとわれる
さみしさが何故か何故の僕

 ・

花をたくさん
飾ってあげて と
テラコッタを願って削り積まれた花壇
日暮れを待って水をあげたの

そこに蜂とも蝶々とも感じとれない
まるでニンフの笑顔があったから
水があふれて唇に
涙がこぼれるまであげるの

しおざいがするわ
すると一瞬もっと陰って
体育館の表でバレーボールの練習生が
わっと風を受け止めたわ
それから幼い街路樹の前で
佇むルソーの亡霊を見たの

幻は都会にだって すこし探せば
お互いを祝い合って生きていられるわ
真夏の氷のように
短い今を生き延びながら

 ・

老女の乳房がそよ風にのんびり垂れるから
すっかり珍しくなった停電を待ちながら
半分程にすり減った犬歯で描いた
胡瓜を齧ってことばを眉間に埋め
足の裏を這う小蝿をテーマに

お前もいつかこの裸のように
描かれてくれないか?
こんな寝室
洗濯物たたみながら
おしっこ溜めたまま
時おり驟雨で目を覚ます
真夜中のオーネット・コールマンよろしく
何も残さない玉葱の皮を剥きながら

かけて感情を出し尽くしても尚
眠りのようにからっぽの
真実の先っぽのすき間が気になる
ことをことばで満たすことはきっとできないから
たまにはひっそりと
てのひら重ねてくれないか

 ・

分かりたいだけそうして

足りているの コバルト
ルフランの為の擦り硝子のパレット
いつ剥ぎ取っても構わないけれど
あなたの好きだった色達が
待っているから

好きなだけそうして

さびしくなってしまった部屋に理由はないわ
向こうの教会でずっと祝われていたかったけれど
あなたの望みで今日のわたしの匂いを
窓辺にひとつかふたつ描いてくれれば
並べた絵筆の中から一本だけ選んで
あなたはあなたの花を枯らしている

 ・

いいさ音がやたら響いて後味も豊かすぎるから余計に威を張って
チャ-#4がこれ以上薄まる前に片づけようか
話はお前の拙いキトリが塑像される前のこと
いつの間にか誰もいなくなった客間の暖炉に
何のためか忘れた酒に倦んで投げこむ
濯い忘れた布の汚れっぷりが心地いい

俺はどこから来たのかもう分からないからいいんだ
半熟のまま果実を日常に忍ばす蔦絡まっていいんだ
自由はどうしようもなく退屈なもの
何故だろうお前が笑顔だけ残していった
昨日まで知らなかった道をゆく
返すものなど、無くていいんだ

 ・

ひさしぶりのやわらかな風に
かなしみを思い出してみたの
柔らかく陽射しをゆらすレース越しに見れば
あなたの笑顔だけは、今朝もフライパンの中で元気

忘れないと決めていたの
この不思議な鮮やかさは灰いろで
興奮したかと思えばすぐ疲れたりする
ベランダの隅っこでする独り言が好きな
あなたは洞にねぐらを探すこうもり

生活の網のすき間に指を挿すおんなね
いつも泣くたびかわいた何度も
求められてわたし
神様だって気持ちいいのが好きなの
その名前の前で産まれたてのはだか
胸の尖に甦るのどうしようもないの

あなたとわたし土から産まれて
ながい時間かけて灰に還る
恐ろしい朝と希望の、海へ

 ・

緑の歓声一面に群れ
雲はどこまでもはぐれ
俺はどこにも鍵を掛けない
会わなくなっても
こうして感じる
一日一度の許された打鐘
お前は晴天に似合うきっと今も
降りそそげ
ぽろぽろこぼれるニゲラの種も
赤土の荒野を吹きぬけ
おなじ酒をおなじグラスで
よろこびひとつ朔すまで

鮮やかに
いまだ摂氏三十度
アルタミラで復活し
蜃気楼だって恋する秋の日
お前と一緒に音楽を聴くと
不思議な一致がたくさんあって
ケニ-・ドリューの技の衰えも
山鳴りとなまめかしく混ざり
記憶の中では
かえって瑞々しいくらい

寂しいか 這い出る瞬間
懐かしい の問いに包まれる

 ・

擦り剥けた膝からのぞくの骨
唾をつけてなおす高校生の人
幕前で震えながら台詞を詠って
私だけに眼差しを向けて演じ続けたこと
知ってるわ
みんな嘘だってこと
嘘が実はやっぱり本当で
本当の答えはこれっぽちも嘘にできないって
あなたのことばと
わたしのことばで
たったひとつのいのちになるの
訳はしらない
訳がわかるものは退屈だから
花屋さんが好きなの
あの沈黙が好きなの
湿った空気の中で誰もがおなじ溶けそうな感じ
それは優しさではなくて
祈りでもない
まして迷いで騙る
愛の名なんかじゃない
そうどうでもいいような
思い出したように愛でるだけでいいもの
たくさん選んだ中からほんの少し
大切にしているもののひとつ
生きるだけのこと以外のあなた
何が欲しいの
わたしはどうしても謎をあげたい
すこし寒くたって
わたしは見上げつづけるわ
そうすればきっとなれるわ
いつまでも空になれるわ





久しぶりに綴ろうと思ったが、完成に随分手間取り日付もしてないが、実際は12月初めの内容になった。


先週から、博多では雨が静かに降る日が続いている。
昨日はアトリエから、そぼ降る雨に濡れたアスファルトの上で跳ねる二羽の雀が見えた。
黒いアスファルトに水溜まりの灰色の空があって、波紋が細重なりに生まれて消える。
静かな雨が好きだ。
屋根に弾ける、優しく響く。
窓の内に鳴る、音色が続く。
傘を翳さずに済むくらい、街に響く音に包まれるのが好きだ。
しかし午後には雨雲は割れ気温が急激に下がると、冬の清烈な光が現れた。

隔週で月に二回、土曜日の姪浜教室の後は、天気がよければ歩いて帰る事にしている。土曜日がまるで絵の具のように青い空だったので、授業の終わった正午過ぎさて歩こうとした処で傍と気付く。年明けから20号を描く生徒さんにこれ迄とは毛色の違うモチーフを組む為、姪浜から幾つか材料を借りる約束をしていたのだ。生徒さんの手を借り袋三つに詰め込む。かなりの重量だがそれでも歩く。
十二月といえども遮る物のない陽射しである。両手にぶら下げた荷の重さに身体はふらふらと揺れ、すぐに汗が腋の下を流れはじめる。上着の釦を外して風を送り込む。程無く今度は指先が痺れはじめる。交叉点で信号が変わるのを待つ間、一旦荷物を下ろして両手を見ると関節が白くそれ以外の部位が紫に変色し、掌を擦り合わせても一向に改善されず、細かい棘で絶えず突かれたように妙にぴりぴりとする。
室見を渡り樋井を渡り、大濠に着いた頃には肩肘が強り、姪浜と清川のちょうど中間に充たる舞鶴城の濠傍で小休止をとる。出発した時と比べ足元の影が伸びている。太陽の傾きが早い。
濠は輝く水を湛えていた。
尾長鴨と真鴨の一群が五十羽もいたろうか、ぷかぷかとオロかナライに吹かれてある。
この時期家の近所で見る鳥は、鳩に雀に鴉にヒヨドリといったところだ。美野島の川縁でたまに鴎を見ることもあるが、潮の満ち引きか、風向きの都合か、姿を見ない時も少なくない。大学の池に鴨は二羽いたが、こうして群れを眺めることもそうない。
小春日和の都会の一角、くっきりと鳴き声を響かせて、鳥達は確かに寛いでいた。
心から楽しんでいた。

一羽の付けたゆるやかな水尾に曳かれた数羽が列になり目の前を過ぎてゆく。丁寧に羽根に油を塗り込む者もあれば、背中に顔をうずめ午睡する者もある。
羽撃いて水面に立ち上がる者、ひっくり返り翼を洗いながら、足掻く沫きが逆光の掘土を背景に輝いている。
そんな周りの騒ぎなど意にも介さず、顔を背中に突っ込んだまま、風が吹く度眠ったままゆらゆら流される者がある。風は吹いても流されず一点に留まる者もある。風に向かってゆっくり泳いでいるからだ。風に流される者と風に流されぬ者。彼等を眺めていると、そこにまるで風が見えるような気分になる。
感情のない動物はいない。それを言葉にするかしないかだけが人との違いで、言葉に頼らずとも、心は大勢が同じ場所で過ごすだけで、自然と伝え合うものだ。
それは個性にも現れる。
常に群れの中心で振る舞う務めを自ら科す者がいる。お互いの一挙手一投足に寄り添い、他者への関心に乏しい夫婦がいるかと思えば、個人主義とでも云おうか、群れの動向にすら興味の薄い者がいる。退屈そうにしている顔がある。仲間を観察している顔がある。何か面白いものがないか広範に回遊するばかりの顔もある。
寂しがり屋にも様々あって、特定の一羽だけに付き纏う者もあり、誰かと誰かが会話を始めた途端、文字通り嘴を容れる者もある。付かず離れずの距離を守るのも一種の寂しがり屋と言えるだろう。
眺める程に鳥達にも、こうした交感があるのが分かる。

では人に対してはどんなものかと、指を伸ばす先から泳ぎ去るのは、この水鳥達が人に不慣れな越冬に海を渡って来たからだろう。私は泳いでばかりの彼等の飛ぶ姿が見たいと、かれこれ三十分も眺めているが未だお目に掛かれずにいる。
この濠を移動する程度で翼は使わない。移動は専ら泳ぎだよ、とでも言いたげに。それだけ長い距離--恐らくはロシアから--を飛んできたということか。
博多で冬を迎える鳥達には博多の冬しか知らぬ営みがあり、春にはまた海を渡る、故郷の春と夏しか知らぬ営みがある。冬眠中の熊の気持ちを無理矢理想像してみても理解にまでは至らないのと同様に、冬の寒さから逃れる為だけに、はるばる数千粁の彼方から飛来する鳥達の心も分かろう筈がない。
渡り鳥がどのようにして目的地を迷わず到着するのか明確な答は出ていないらしい。星の移動や地磁気、地形等を頼りにしているのではないかと言われている。人はかように神秘的な能力を残念ながら持たない。しかし鳥にしてそうした力があるならば、有史以前の人類にも科学で解明さていない何かしらの力が具わっていたとしても不思議なことではない。
何故なら、私達の祖先は夜空を照らす物体が月と星だけの世界の住人だったのだ。一穂の灯火を握りしめた。
テレビもなく、ラジオもない。
言葉は最小限、あったろう。
夜が、暗闇そのものを雄弁に語る世界だ。気の利いた修辞が生まれるのを、孤独に待つまでもない。
それは国のない世界。
地図のない世界。
獣が移動するにつれ、磨かれた石を振りかざし後を追った私達の祖先を、現在とは異なる力が支配した世界。
そこでは一本の木ですら、今とは異なる見え方をするだろう。
山の連なりが、神々が掴む最初の巨大な手形であったろう。

先日秋月から原鶴までの小旅行で博多の街の過密を改めて感じたが、途中筑後川で漁撈の上に久しぶりの雁行を見た。
菊地や益城に住んでいた頃は、年に数回「くの字」を画く編隊を見上げながら遠い北国に想いを馳せた。当時よく読んだ漫画の景色にあった、陸奥の真紅や蝦夷松の原生林は、あの鳥達が後にしてきた生まれ故郷だろうかと…。
まだ博多という街がなく、空がもっと拡がっていた頃から、今も彼等は本質的に変わらない。
鳥達はただ、ずっと飛び続けてきただけだ。それは私達の先祖が見上げてきたものと同じで、今私達が見上げるものとも同じだ。この先化学が如何に新しい発見をしようとも、過去に人間が失った感覚がどれ程鋭いものであったとしても、そこには人が見上げることしか許さぬ、鳥達の完きの空がある。
それをただじっと眺めた。

いつの間にか太陽は白っぽい色を更に薄め、風にも冷気が織り込まれてきた。
ふと視線を落とすと、優に二尺はあるだろう、鈍色の鯉が私を見上げていた。そっと人差し指で触れると、餌を呉れないと分かったのだろう、ゆっくり身を翻し水底に消えた。