これまでは、通常の意味での自動詞と他動詞を扱ってきたのですが、
日本語の自動詞と他動詞は、この範囲には収まりません。
例えば、「渡る」は自動詞でしょうか、他動詞でしょうか。
「日比谷通りを渡った。」は自然ですが、
「日比谷通りが渡られた。」は不自然な日本語です。
「教わる」「分かる」はどうでしょうか。
「先生に英語を教わった。」は自然ですが、
その受動態は、想像できません。
また、「雨に降られた。」は形式上は受け身ですが、
では、「降る」は自動詞でしょうか、他動詞でしょうか。
日本語では、自動詞を受け身にすることができます。
それを「間接受け身」と呼ぶのですが、
その多くは、「被害/迷惑」の意味を持ちます。
上述の「雨に降られた」もそうですが、「虫にやられた」など、
被害/迷惑の意味が入ってくるのです。
このように、日本語は、自動詞/他動詞や受動態/能動態の区別が、
本質的に、英語よりはるかに曖昧な言語なのです。
(これが、自動詞と他動詞の混乱を引き起こしているとも言えるのですが。)
こうしたことから、1950年代に、三上章という国文法学者が、
日本語の動詞を、受身になる能動詞と、受身にならない所動詞に分けました。
さらに、能動詞を直接受け身になる動詞(他動詞)と間接受け身になる動詞
に分けたのですが、所動詞は非対格動詞、能動詞は非能格動詞に当るとされ、
現代では、その先駆性が大変評価されています。
日本語の自動詞と他動詞は、この範囲には収まりません。
例えば、「渡る」は自動詞でしょうか、他動詞でしょうか。
「日比谷通りを渡った。」は自然ですが、
「日比谷通りが渡られた。」は不自然な日本語です。
「教わる」「分かる」はどうでしょうか。
「先生に英語を教わった。」は自然ですが、
その受動態は、想像できません。
また、「雨に降られた。」は形式上は受け身ですが、
では、「降る」は自動詞でしょうか、他動詞でしょうか。
日本語では、自動詞を受け身にすることができます。
それを「間接受け身」と呼ぶのですが、
その多くは、「被害/迷惑」の意味を持ちます。
上述の「雨に降られた」もそうですが、「虫にやられた」など、
被害/迷惑の意味が入ってくるのです。
このように、日本語は、自動詞/他動詞や受動態/能動態の区別が、
本質的に、英語よりはるかに曖昧な言語なのです。
(これが、自動詞と他動詞の混乱を引き起こしているとも言えるのですが。)
こうしたことから、1950年代に、三上章という国文法学者が、
日本語の動詞を、受身になる能動詞と、受身にならない所動詞に分けました。
さらに、能動詞を直接受け身になる動詞(他動詞)と間接受け身になる動詞
に分けたのですが、所動詞は非対格動詞、能動詞は非能格動詞に当るとされ、
現代では、その先駆性が大変評価されています。