『駆逐艦ベッドフォード作戦』

1965年アメリカ映画 102分

監督:ジェームズ・B・ハリス

脚本:ジェームズ・ポー

出演:リチャード・ウィドマーク シドニー・ポワチエ 他


「未知への飛行」「博士の異常な愛情」と同系統の冷戦モノ。下敷きになってるのはまさに「白鯨」。考えてみるとアメリカの作る話やキャラには、本当に驚くほど「白鯨」的なものが見出せる。作るものだけではなく、根底にある精神そのものが、「白鯨」的なのだろう。怖…。


フィンランダー艦長(リチャード・ウィドマーク)の率いる駆逐艦ベッドフォードに乗り込んだ記者のマンスフォード(シドニー・ポワチエ)と軍医のポッター(マーティン・バルサム)だが、乗組員たちは威圧的・狂信的なフィンランダーに支配されてしまっている。違和感を覚え、フィンランダーとぶつかる二人。だが、艦内の異様な空気は止められず小さな手違いが発生、核爆弾が発射される。


ああ…。地球、終わっちまったよ…。


この絶望的な後味はこの時代に特有のもの。この緊張感を実際に知っているわけではなくても、ここまでのリアリティを持った「やっちまった感」を他で感じることはない。子供が観たらトラウマ必至、だけどたまにこういうのを無性に観たくなる時もある。などと気楽に書いてはいても、こんな危ういバランスの上に世界は成り立っていて、今もその延長上にあるのだということを考えると、やっぱり背筋がゾゾーっと凍る。


「ソ連の潜水艦が近くにいる!」と言って生ごみ調べたりするシーンは非常にコメディ的で、実際、途中まではソ連艦なんかいないんじゃないか、フィンランダーの単なる妄想なんじゃないかと思ったりした。何が本当で本気なのか分からない感じ、帰りたいけど帰れない、笑うしかない引き攣り笑いといったものは、その只中にある者にしてみれば地獄だろうけど、地獄であるがゆえに本当に可笑しい。


何か知ってる、この感じ知ってると思いながら観てて、あ、これ去年やった仕事の時の心理状態に似てるんだ、と気付いた。あれは狂ってた、けど今思うとあれ以上に面白い経験もそうそうないだろな。いつか何かにしてやるわ。ドーン!


   フィンランダーが昇進から漏れた理由を追求するマンスフォード。

   フィンランダーの見解を明確にしたいと。

   苛立つフィンランダー。

フィンランダー「…分かった」

   立ちあがり、

フィンランダー「私はそれほど愚かではない。政府のために働いてる男だ。時には命すら要求される。深い忠誠心が必要だ。(声を荒げ)私は愛国者だ、国の為なら如何なる敵も滅ぼす。どこが悪い!?」

マンスフォード「核兵器を用いてでもと?」

フィンランダー「そうは言わん!」

マンスフォード「でも匂わせた」

フィンランダー「それは君だ。私は言わん!」


★★★★★★★☆☆☆

『アキレスと亀』

2008年日本映画 119分

監督:北野武

脚本:北野武

出演:ビートたけし 樋口可南子 他


北野映画。金持ちの一人息子として好きな絵ばかり描いてきた少年・真知寿(少年期を吉岡澪皇、青年期を柳憂怜、中年期をビートたけし)だが、父の失敗で家庭崩壊、孤児となる。それでも絵を描くことはやめられず、理解者である妻・幸子(青年期を麻生久美子、中年期を樋口可南子)と共に、家庭生活も省みず芸術を追求し続ける。


真知寿の周辺では波乱万丈なことがたくさん起こるのだが、この人は芸術にしか意識が向いていないので感情としては常にフラット、それゆえ映画としてのダイナミズムは希薄。一体何が言いたいのか、「アキレスと亀」のパラドックスが(ご丁寧にアニメで説明までしてくれてるのに)結局よう分からんから分からんのか。


それにしても、北野映画の女の人はいつも優しい。優し過ぎて怖い。この怖さは、ビールのCMの壇れいや、ハイボールのCMの吉高由里子に対して感じるのと同じ種類のもので、たぶん異性からは見えにくい女の狂気。たけし自身、鈍感な普通の男と同じように無邪気にその狂気に甘えているだけなのか、それとも、それ自体を皮肉なものとしてとらえているのかは、よく分からない。


そしてそれと同じように、たけしがこういう芸術家の姿をどう思っているのか、もしかして本気で憧れてるのか、それともバカだなぁと思ってるのかもよく分からない。


たぶん、両方なんだろうと思う。その整理できない愛憎ゆえに、こういう映画を作っちゃう人なんだろう。ほんと、もうどうしようもないくらい照れ屋で甘えん坊なんだろうなこの人は、と、なんかこの人の映画を観るたびに思ってる気がする。そして、それが「男」なんだろうな、だからモテるんだろうな、とも。


私はそういう意味で言うともう本当に「女」で、「男」を都合よく包む優しい狂気も持ち合わせていない。だからもう、この人の立ち位置からはぴったり真逆。私は書くことで自己実現を目指しているわけではなく、特別扱いされたいわけでもない。文学ではなく脚本をやってるっていうのはそういうことで、私は執筆をしてるんではなく、作業をしてるだけだ。芸術がやりたいんではなく、仕事がしたいだけだ。


でも、私とこの人が同じフィールドにいることも確かで(ホントに仕事だけがしたいんなら会社で働いてりゃいいわけだし)、私はこの人とは違う!と強く感じる反発は、もしかすると、近親憎悪的な感情なのかもしれない、と思ったりする。よくよく考えると、私も真知寿とすごくよく似た起伏の無さを生きてるような気もするし。この人とは、そういう話をしてみたいと思う。きっと、教授のような真摯さで答えてくれるんだろうな。芸大行きゃいいのか?


観てる時は正直どうしたものかと思った映画だけど、後から考えることが多い。いろいろ考えた後に思うに、この映画、「芸術家にはなるもんじゃない、芸術家という状態があるだけ」ということを理解できなかった男の痛すぎコメディってことなのかな。画商役の大森南朋がいい仕事してた。


   メッセージ性のある絵を描けと言われた真知寿。

   幸子に協力してもらい、アフリカ大陸の上に黒い足跡をつける。

   それを画商に見せ、

真知寿「題して、黒い大地。白人に踏み荒らされた、アフリカです」

画商「コンセプトはあるけどさ…これだと、黒人が踏ん付けてることにならない?」

真知寿「……」

幸子「……」

画商「黒いアフリカ描いて、白い足で踏ん付けるんなら分かるけど、これだと、黒人の足跡に見えるよね」

真知寿「……」

幸子「……」

画商「アフリカの大地を、黒人が荒らしてるみたいだよ」

真知寿「……」

幸子「……」

画商「あと、これ、裸足でしょ?白人だったら、革靴でしょ」


★★★☆☆☆☆☆☆☆

『Mr.レディ Mr.マダム』

1978年フランス・イタリア映画 91分

監督:エドゥアール・モリナロ

脚本:フランシス・ヴェベール ジャン・ポワレ エドゥアール・モリナロ マルチェロ・ダノン

出演:ウーゴ・トニャッツィ ミシェル・セロー 他


コメディ。ゲイクラブを経営するレナト(ウーゴ・トニャッツィ)と、看板踊り子アルバン(ミシェル・セロー)は20年も生活を共にしている中年のゲイカップル。二人はレナトの息子ローラン(レミ・ローラン)を育ててきたのだが、大学生になったローランが結婚したいと言い出す。相手アンドレア(ルイザ・マネリ)の父はお堅い政党の書記長。レナトとアルバンはローランのため、「普通の親」に見せかけようと悪戦苦闘する。


元は舞台劇。キャラ設定の特異性を別にすれば、突飛なところは特になく、シンプルで手堅くまとまっている。だからこそ着地点で「ああよかったね」と素直に思える。もっと何だか凄い話かと思ってた。


ゲイの人はともかく、ゲイのカップルという知り合いは私にはいない。だから、レナトとアルバンのように、男同士でありながらどっちかが「女性的」になるというのが常なのかどうかはよく分からない。そういう役割設定で考えてしまうこと自体がストレートの偏見なのかも、とも思ったりするが、ともかく、倦怠期でヒステリックな「おばさん」=アルバンがいじらしく、可愛い。


明るく楽しくコミカルな雰囲気ではあるのだが、ゲイ映画の常である閉塞感や出口のなさというのもやっぱり感じる。映画観た直後にうたた寝して見た夢で、なんでか私がアルバンになっていたのだが、起きた時に残っていた感慨は何とも言えないやるせなさだった。喜劇性を際立たせるほどに、それを支える悲劇性も強度を増す。


こういう親の下で育ってる子って結構いるんだろうな。エルトン・ジョンのとこも子供いるとか何かに書いてあったし…。だけどそういう子は立派に育ちそう、結婚も早そう。ゲイに限らず、困った親の子って大体そうな気がする。これもまた偏見かもしれんが。


   相手の両親が来る間、どこかに行ってくれと言われたアルバン。

   ゲイっぽい部屋が模様替えされているのにも気付き、

アルバン「いいわ。これまでね」

   部屋の中を進むアルバン。

アルバン「私は行きます。我が家から追い出されて…消えればいいんでしょ。出ていくわ。どうせ私はバケモノよ」

   出ていくアルバン。

   レナト、ローランに、

レナト「これで安心か」

   と、外からアルバンの泣く声が聞こえてくる。


★★★★★★★☆☆☆