『どん底』

1957年日本映画 137分

監督:黒澤明

脚本:黒澤明 小國英雄

出演:三船敏郎 山本五十鈴 他


水はベクレるわ、「フクシマ50」とか何の考えも無しに言えちゃう奴らに反吐が出るわで、今パンクしか聴く気がしないんだが、パンクすら聴くに耐えるものが少ない殺伐に驚いてる。その鋭利な先端でシュシュ縫えちゃうくらいの尖り具合。


汚い小屋ん中に裸の人間転がして、ガラガラ揺さぶり皮剥いたような映画。根本的なところでどうも私は、男くっさーーーい映画が好きなようなのだが、これもそう。女も出るし、殊更男映画という括りでもないが、女の映画が避けて通れないところを殺ぎ落とし、細胞レベルに分解された人の業を晒してるという意味では非常にこれ男性的で、発作的に「あれ観たい!」となる映画って大体その手のやつ。


フガフガモゴモゴ、ピーヒャラピーヒャラワッショイワッショイと進んでく(という説明が一番正確な気がする)この映画の圧巻はラスト。こんな気分だからだろう、三井弘次演じる遊び人が、もう、たまらなく鮮やか。厭世的というだけでは到底足りない腹括り。粋ってそういうことだわね、と、全然質は違うけど、心震えた江頭さんの話を思い出したりして。


でも私は東野英治郎なんだよな。ああカッコいいな、私も三井弘次みたく潔くなりたいなと思っても、プライドで突っかい棒をしていないと立っていられない。美化された過去を抱いてでないと眠れない。藤原釜足にも見覚えがある。馬鹿な奴。そう思うけど、最終的に逃げるっていう決断ができただけ、東野英治郎より藤原釜足の方が上等かもしれん。


目糞鼻糞。その滑稽な儚さ、そこからどんだけ目をそらさずにいられるか、それをどんだけちゃんと掴まえられるか、そういうことかもしれないと思う。もちろん今までもそういうつもりでいたけど、何かつくづく、身に沁みて思う。自分も今ガラガラやられながら思う。んで、東野英治郎が意地でも離そうとしない鋳物と同じ物かもしれないけど、ゴリゴリ音がするぐらい硬い本を今、目一杯読みたいと思う。とにかく難解なやつを。


田中春男が好き。理由は説明できない。言うならば、三船さんカッコいい!とキャッキャ言いながらも心の中ではずっと三井弘次に片思いを続け、でも結局田中春男と結婚する、という感じの好き。


   死期の近い鋳物屋の女房(三好栄子)にせがまれ、

   話をしてやっていた巡礼(左ト全)。

   あの世がいかに素晴らしいかを語る巡礼だが。

女房「おじいさん。本当に休めて、何の苦労もないのかい……?」

巡礼「ああ。請け合うよ。だからくよくよせずに、お迎えを待つんだよ」

女房「でも……ひょっとするとあたし、よくなるかもしれないね」

巡礼「何のためにさ。また、苦しい目にあうためにかい?」

女房「だって……まだ、もう少うし……生きていたいもの。もう少し……」

巡礼「……」

女房「あの世に、苦しみがないなら……この世で、もう少うし、辛抱しても……いいよ」

巡礼「あの世にはなーんの苦もない。だから……」

   と、話を聞いていた泥棒(三船敏郎)、

泥棒「なるほど、そうかもしれねえ。(大声で)だがそうでないかもしれねえなあ!」

   驚いて布団をかぶる女房。


★★★★★★★★☆☆

『チャイナ・シンドローム』

1979年アメリカ映画 122分

監督:ジェームズ・ブリッジ

脚本:マイク・グレイ T・S・クック ジェームズ・ブリッジ

出演:ジェーン・フォンダ ジャック・レモン 他


地震酔いと洗脳必至のニュース映像と怒涛のAC攻勢に苛まれ、治りかけの風邪もぶり返し、灯火管制下の薄暗い室内で人としての機能をほとんど失っているこの一週間、「ポポポポーン!」と無意識のうちに呟いてるよりは、と思って引っ張り出して観た唯一の映画。


初めて観た時には結構な衝撃を受けた記憶がある。だが、観返してみると、映画の中身より現実の方が軽く上を行っていた。その意味で再び衝撃を受けた。ちなみにこの映画、スリーマイル島の原発事故直前に公開されたといういわくつきの作品で、タイトルの意味は…書かない方がいいと思う。


***


「私は作家である」という自己定義に、神経質なまでに慎重になってしまうのは今に始まったことではない。しかし、こういうことになってみてますます、自分の存在意義というのか、私は一体何なのかというのが分からなくなった。たぶん、具合が悪くなってしまったのにはそういうことも大いに関係していたと思う。


「激烈な状況下で作家は何の役にも立たない」などと当たり前のことを考える人間は、おそらく「作家」ではない。だからと言って、この空気の中で淡々と、前の続きの物語を書き続けられる人間も「作家」とは言わない。また、「作家」がこの出来事から得る「教訓」は、パニック映画の製作に生かされるものなどでは決してないと思うし、「緊急時に触れた人の温かさ」といった浅薄な結論でもないと思う(最終的に行きつくのがそこであるにしても)。


何を読んでも、微かに苛立つ。誰と話をしても、「違う」と思う。過敏になっているのが自分でも分かる。その違和感は自分自身にも向けられていて、つくづくこの無知に呆れる。どんだけ自分が馬鹿か、何も学んでこなかったか、じっとしていられないくらい悔しく思う。


自分を「作家」と言っていいのなら、「作家としての私」に今できることは、ただそうして呆然とすることだけなのかもしれないと思う。自分の中の地層がどんだけずれたか、その驚きというか、ショックにとことん付き合うことなんじゃないかと、とことんノイローゼになることなんじゃないかと思う。「前向きに頑張る」なんて絶対に違う。一市民として協力できることは最大限にするけども、私のやるべきことは(不安解消行動にしか見えない)ボランティア活動に身を投じることなどではない。何もできないし何も分からない、その無力感を嫌というほど直視すること、それだけだと思う。


この先しばらく、ドラマをはじめとする日本の物語が「勇気」や「善意」といった皮相な言葉に覆われ、保守化・硬直化していってしまうのはほぼ間違いないだろう。そんな中で「作家としての私」に何かの役割があるとしたら、それは、今こうして図らずも炙り出されてしまった「無力感」や「無知」、「醜さ」「狡さ」を腹に据えて覚えておくことだと思う。というか、それくらいしか思いつかない。


ある種の惰性的安定の中にあった私の仕事やこのブログだけれど、ここ数カ月、それを変えようとする動きが自分の中にあって、そのせいであんまり書いていなかった。でも今回の出来事で、その動きが外的に確定してしまったような気がする。


うすうす思い始めてはいたけど、「作家」として大事なことは、売れることでも有名になることでも誰かに認めてもらうことでもないね。「多くの人に思いを伝えたい」などといった「使命感」も、誇大妄想的な思い上がりでしかない。ただ私は、この内側のふつふつとしたムカつきを無視することができない。だからそれを記録する。クソ真面目に、クソ正直に残していく。その営みを「作家」と呼ぶんなら、勝手にそう呼べば、って思う。

『エンゼル・ハート』

1987年アメリカ映画 113分

監督:アラン・パーカー

脚本:アラン・パーカー

出演:ミッキー・ローク ロバート・デ・ニーロ 他


オカルト・スリラー。55年のNY。謎の紳士サイファー(ロバート・デ・ニーロ)に、戦前の人気歌手ジョニー・フェイバリットを探してほしいと依頼される私立探偵のハリー(ミッキー・ローク)。手掛かりを辿り、証言を集めていくハリーだが、証人が次々に無残な死を迎える。調査を辞めさせてほしいというハリーに、サイファーは恐るべき真実を告げる。


と、これだけ書くと何のことか分からない。オチが全ての話なので、知りたくない人はここから先読まないでいただきたいのだが、要はこの話、ハリー=ジョニーだったという本人オチ。正直、そうなんだろうなぁと途中から思いながら見ていたのは、あまりにそうした形式に慣れ過ぎてしまっているせいか。


でもこの映画が作られたのは87年、20年以上前に作られたとは全く感じさせない完成度の高さ、


なのかな…。と、ちょい自信が持てないのは、過剰なまでのオカルト描写のせい。何が展開上必要で何がそうじゃないのか分かんなくなるようなグロ演出。論理に整合性を求めることを放棄しだした中盤からは、そういうのも含めて楽しめるようにはなったけど。


悪魔に魂を売って歌手として成功するとか、他人の心臓食ってそいつに成り代わるとか、なんで?と思ってはいかん。NY白人の南部黒人に対する恐れってそういうものなんだなと、この映画観てるだけだと何の事だかさっぱり分からないブードゥー教の儀式ってのは異界への恐怖を具現化したものなんだなと、何となく思う程度でお腹いっぱい。


図らずも娘のエピファニー(リサ・ボネット、レニー・クラヴィッツの元嫁だ)と近親相姦に至ってしまったハリーの白い尻に天井から降り注ぐ血と、ラスト、下へ下へ降りていくエレベーターの映像が印象的だった。


   サイファーに、不気味な調査の結果を知らせるハリー。

ハリー「正直言って、この事件には宗教がからんでいて気味が悪い。何やら祟りのようで…」

サイファー「宗教は、人間の愛よりも憎しみを募らせるのだ」


★★★★★★☆☆☆☆