『ズーランダー』

2001年アメリカ映画 89分

監督:ベン・スティラー

脚本:ドレイク・セイザー ベン・スティラー ジョン・ハンバーグ

出演:ベン・スティラー オーウェン・ウィルソン 他


男性モデル業界が舞台の徹底馬鹿コメディ。もう10年も前なんだな…。小ネタが懐かし過ぎるな…。人生初のマイパソコンはオレンジのiMacだったな…。すぐフリーズしたな…。ストーンズの'She's a Rainbow'聴きながら、よく道端に転がしてやりたい衝動に駆られたな…。


あと、今じゃすっかり有名な人がチョイ役で出てたり(ヴィンス・ヴォーンとか)、「あの人は今」的な人がいかにもありがたい感じで出てたりする(ウィノナ・ライダーって凄い人気あったよね…)。デヴィッド・ボウイも出てるんだけど、この頃はまだ「カッコいい」のぎりぎり崖っぷちぐらいには立ってたんだというのが興味深い。今もうお爺さんだもんねぇ。


しかし私もつくづく馬鹿者だなと。結局一番多感な時期に一番影響受けた映画ってこういうのなんだもの。こういうの観てた頃に「脚本書いてみようかな」なんて思い始めてんだもの。改めて観直して、「あれ意外と筋通ってんじゃん」とも思ったけど、にしたって、なめくさっとるよね…。「黒澤に影響」とか「ゴダールに傾倒」とか言えちゃう人に比べると、つくづく自分の育ちの悪さを実感させられる。別にいいけど。


この映画でオーウェン・ウィルソンに惚れた。監督も務めるベン・スティラー、この映画にはお父さんのジェリー・スティラーも出てるけど、ホント、いい息子持ちましたね。息子ベンと共同経営者オーウェンが立派に会社引き継いだ、その草創期の勢いを感じさせる映画。


   モデルが嫌いだという記者のマチルダ(クリスティン・テイラー)。

   理由を聞くデレク(ベン・スティラー)とハンセル(オーウェン・ウィルソン)

   に、子供の頃太っていたからだと語る。

マチルダ「可愛い子たちに馬鹿にされて、最悪だったわ。(溜息)とにかく、毎日学校から家に帰ってきて、ママの『ヴォーグ』とかをめくると、素敵な女の人たちが載ってた。物凄くきれいで…嘘みたいにやせてるの。”どうして…私たちは彼女と違うんだろ”。理解できなかった」

   真剣に聞いているデレクとハンセル。

マチルダ「それが原因で…なったの」

ハンセル「…何に?」

マチルダ「過食症に」

   ハッとした顔になるデレクとハンセル。

デレク「…それって、読心術?」

ハンセル「!…」

マチルダ「…食べるたびに吐くことよ」

   デレクとハンセル、何かを考えていて。

マチルダ「分かる?モデルは人を自己嫌悪にさせるの」

   可笑しそうに笑いだすデレクとハンセル。

デレク「だから?僕だって食べすぎた後吐くよ?」

ハンセル「手っ取り早く減量できるもん」

マチルダ「あのね、過食症は病気なのよ?」


★★★★★★★☆☆☆

『彼岸花』

1958年日本映画 118分

監督:小津安二郎

脚本:小津安二郎 野田高梧

出演:佐分利信 有馬稲子 他


旧友の娘の交際には理解を示しながらも、自分の娘の縁談には頑なになってしまう初老の男の葛藤を描く。小津初のカラー作品。


「これを言わずには死ねない」というメッセージ性ではなく、ただただ「ダサいのは嫌い」という小津の徹底した主義に貫かれている。着物や花や骨董の色味の語ること、語ること。つくづく小津はお洒落さんだったんだろうな。これはこれで潔く、男映画の続いてた目には非常に新鮮。目の保養。


私もやっぱり、ダサいのは嫌い。格好良いのがいい。などと、わざわざ言うまでもなく皆大抵そうで、その集積で人ってものは成り立ってんだろうと思うが、やっぱその基準に対する厳しさというのは自分で決めるしかないので、難しいとこだなぁと思う。


最近、日暮里繊維街が気に入って、よく行くのだけれど、何でも揃っている。布だけでなく、ボタンだのレースだのリボンだののバリエーションも素晴らしく、もう凄まじく素敵なものが何でも、いくらでも作れそうな気がして、カーッと頭に血が上ってしまうのだが、落ち着いて辺りを見回してみると…すいません、実に失礼なんですけど…そんなにお洒落な人は、別にいない。


無限の可能性にクラクラしつつ、いつもあそこで思うのは、作家性(というのが言いすぎなら、単にセンス)って、何をするかよりむしろ、何をしないかなんじゃないかなぁ、ということ。もちろん、何もしないと何もないんだけれど、ごてごてと、何でもかんでもやってみるのは意外と容易い。でも仕上がりを決めるのは結局、何が要って、何が要らないか、それを的確に見極められる能力なんじゃないかなと。


難しいのだよなぁ。単体でいいなと思っても、それが他に合うかどうかはまた別問題だし、もっといいのがあるかもしれない、と欲が出ると過剰になるし。本当に難しい。何かすげー普通のこと言ってる感じだけども、それが分かってる人は本当の意味で大人だなぁと思う。純粋に尊敬するし、私もそうなりたい。


小津さんはもう、悔しいくらいそこんとこ分かってる。赤いヤカンは、とにかく必要なのだ。「何のために?」なんて野暮なガキの質問にはきっと答えてくれない。分からないなら残念ですね、それだけだ。だけどこのこだわりは、単なる小津の個人的な偏愛の域を越え、おそらく万人が心地よく感じるはずで、何なんだろうなこれは。もはや、仙人みたいだよな。


   娘・節子(有馬稲子)の交際相手・谷口(佐田啓二)が、

   平山(佐分利信)の元を訪ねた日の夜。

   平山、節子を問い詰める。

   母の清子(田中絹代)も控えている。

平山「お父さん、お前の将来を考えて、不幸な結婚はさせたくないんだ。お前がみすみす不幸になるのを、黙って見ちゃいられないんだ」

節子「……」

平山「お前、谷口って男、よく知ってるのか」

節子「…知ってます」

平山「結婚の相手として、いいと思ってるのか」

節子「…思ってます。あの人、お父様のお望みんなるような、そんな立派な家柄じゃないかもしれません。でも、そのためにあたし、不幸になるとは思いません」

平山「お父さんにはそう思えないね」

節子「そりゃ、お父様の考え方です」

清子「節ちゃん」

節子「(清子を見るが)…あたしは違います。あたしにはあたしの考えがあります」

平山「どんな考えだ。言ってみろ」

節子「言ったって…分かっていただけないと思います」

平山「何っ!?」

清子「節ちゃん!」

節子「お母様。…お父様やお母様は、初めっからお幸せだったのよ。あたしたち、お父様の思ってらっしゃるような、そんないい生活はできないかもしれないけど…できなくてもいいの。それが不幸だとは思いません。あたしたちのことは、あたしたちで責任を持ちます。お父様やお母様にご迷惑はかけません」

清子「でもねえ、節ちゃん…」

節子「いいの!もういいの!」

   顔を覆って、泣く節子。


★★★★★★★★★☆

『江分利満氏の優雅な生活』

1963年日本映画 103分

監督:岡本喜八

脚本:井手俊郎

出演:小林桂樹 新珠三千代 他


「それ、どんな話?」と聞かれて答えるのが苦手だ。「どの辺が面白いの?」という質問にも戸惑う。でも、それを的確に説明するというのが私の仕事でもあって、だからこそ、そのことに焦点を絞って勉強してきた。このブログを始めたのも、元はと言えばそういう目的のためだ。


訓練の甲斐あって、当初の苦手も、まあ、だいぶフォローできるようにはなった。その能力の必要性も分かってきたし、私のそういう能力を頼りに意見を求められることも多くなった。


でも、未だに自信が持てない。そういう「ちゃんとした」「説得力のある」言葉で十分な気が全然しない。もちろん、単に私の説明力がお粗末なだけかもしれないが、それにしたってそうした私の説明に、他人はともかく、当の私自身が説得されたことがただの一度もないのだ。確信が持てない。正直に言えて、ぎりぎり「私は面白いと思いますが他の人が面白いと思うかどうかは分かりません」という程度。


本質的に向いていないのだと思う。酒が飲めない体質と同じ。自分に酔えない。常に、もっと醒めた自分が私を見ている。でも、不感症なわけではないのである。ただ、いくら「泣ける!」「名作!」と言われる映画でも、本当にそうかどうかは自分で最後まで観なければ分からない。「面白い作品になります!」といくら上手にプレゼンしても、本当にそうなるかどうかは作ってみなければ分からない。そんな風に思うだけ。自分を騙せない。要は、大人になりきれていないのだと思う。


愛しい映画。皆にオススメしたい一押し映画でもなく、観ておくべき日本の名画でもなく、私はただただ、この映画が心から愛おしい。


自己完結、言われてみればその通り。だけど、自分の感じ方以外で確かなものなどどこにあろうか。それは別に、「世界観」とか「作家性」といった特権的な言葉で括られるものではない。過ちの危険性を孕みながらも徹底して主観に根差すこと、その方が、在り物の感動をなぞって何か言った気になるよりもよっぽど真摯だ。素面の私は、ただそう思う。


風変わりでよい。というか、そらあんたと私は違うんだから、あんたから見て風変わりに見えるのは当然のことだ。体裁など知ったことではない。この映画の終盤、江分利(小林桂樹)の泥酔を見てみなさい。訳なんか分からない、だけど言わずにいられない。何のことだか分からない、だけど泣けて仕方がない。


生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人にとっては、空疎と分かっていても前向きな言葉が力になるのかもしれない。でも、痛みを間接的にしか感じることのできなかった大多数の人間が試されるのはこれからだし、そのうねりは、ちょっと想像もつかない規模のものにきっとなるのだろう。そうなった時に効力を持つのは、単純に並置できるものではないかもしれないが、同じように変動に直面した過去の個々人が何を思ったかということでしかないと私は思う。その意味で、私はこの先も幾度となくこの映画を観返すのだろう。


自分を追い込まなければならない。私が生来持っているらしい体質的な不器用さを、これまでのように隠すのではなく、たぶん、全面的に出していかなきゃならない。日頃の私を知ってる人なら何となく想像もつきますでしょうが、相当、妙ちくりんなことになりそうだ。でもまあ、そうなっちゃうもんは仕方ない。パンツ一丁で外歩いてる江分利だって、相当妙ちくりんだしね。それを面白がってくれる奇特な人がいりゃ、それでいいやね。


ちゃんとしてる人に興味はない。ああ、風変わりな人に会いたい、話がしたいと思う春の日。


   杖をついたよぼよぼの父(東野英治郎)の前を歩く江分利。

江分利M「週に一回、父は病院へ行く。その日だけ江分利は出勤時間を遅らせて、渋谷まで一緒に行って、タクシーに乗せる。父は、江分利の後を追って、鼻水垂らして歩いてくる」

   振り返る江分利。

江分利M「破産した実業家の無残と老醜が、一生懸命頑張って歩いてくる。横須賀の秀才よ、ファイト。いい時もあったんだよ、あんた。よすぎた時が」

   機関車の音と共に歩いてくる父。

江分利M「江分利は、父を悪人とは思っていない。戦争に関しても、父は悪人ではない。父は戦犯という意味では戦犯だが、一体それなら、明治生まれの実業家で、戦争のお陰を被らなかった人がいるかだ」

   とぼとぼ歩きだす江分利。

江分利M「だけどねぇ、仕方がないんだよおとっちゃん。とにかくお前さんの男としての生命は、戦後何年目かで終わっちゃったんだ。これはねおとっちゃん、お前さんが悪いんじゃないんだよ。日本という国がそうだったんだよ。お前さんみたいな商売の人間は、戦争があれば儲かったんだよ」

   一生懸命歩いてくる父。

江分利M「今でも船会社や製鉄所や、株屋なんかで、戦争を待ってる人間がいるんだ。お前さんだけじゃないんだよ。だけど、もうやめてくれよ。頼むからやめてくれよ。昭介が兵隊に行くくらいなら、俺も夏子も死んじゃうよ」

   江分利に追いついて、笑顔を見せる父。


★★★★★★★★★★