ラグビーを題材にしたドラマでもありました。
『俺は今からお前を殴る!』
僕らの時代は体罰は普通にありました。
何かのトラブルがあって一時禁止されてたトランプを昼休みにこっそりやってると、担任が入ってきて往復ビンタをくらいました。
休み時間にトランプをやってただけで…。
大好きだった吹奏楽部は凄く強かったんですが、一年の頃は体操服で集まって楽器も触らせてもらえず、ひたすら持久走と腹筋トレーニングでした。
持久走で目標タイムをオーバーしたり、腹筋の回数やもも上げの目標タイムが出来なければ竹刀でケツバット。。。
肺活量と腹筋のトレーニングなんですが何部に入ったのか解らなくもなりました。
僕らの世代が「体罰は日常茶飯事だった…」と言えど、なにか理不尽は感じていたんですよね。
ただ、子供の頃にやった殴り殴られ取っ組み合いの喧嘩は人を成長させる場面があるのかもしれません。
子供の頃たまにケンカをして帰ると、母は何も言わずに服を洗ってくれ、傷口を手当てしながら…
『明日学校に行ってしっかり仲直りしてきなさい』
ただそれだけだったと思いますよ。
そして翌日、どちらからともなく「ごめんなさい…」と言い、互いに反省をし、再び友情を深めあったという場面も確かにありました。
凶器はいけない、これ以上はヤバい、頭はいけない…と、痛さから学ぶこともあったのでしょう。
喧嘩をして大怪我なんて聞いたこと無かったと思います。
故にどんな怪我をしようが子供の喧嘩に親が出ばってくるような野暮な親はいなかったと思いますよ。
そんな僕らの世代が親となり、これが理解に苦しむんですがなぜか“モンスターペアレンツ”となって学校や教師にクレームをつけ、学校で喧嘩があって怪我をしたらやれ謝罪だ、やれ教育委員会だと騒ぎ立て、終いには訴訟だなんだと言い出す…。
いかにも見苦しい。
愛の鞭。。。
相手が憎くて怒りで人を殴るのならともかく、人を愛するがゆえに殴るなんて…
僕は信じません。
お前の事を思って、俺はお前を殴る!
なんてのはやっぱり愛情でもなんでもなく、制圧せんとする社会的な見栄、威厳を保つためだけの術、自身の余裕の無さ、みせしめみたいな感じがしませんか?
手を上げる前に、その子に言って聞かせる言葉や創意工夫が足りないんじゃないかと。
真の指導者ならんとする方々ならば、まずはそこを反省でしょうに。
そして伝えたい真実を、冷静になって考え直し、創意工夫し相手に理解させ得心させる…べきなんじゃないかと…。
もし体罰をもって教えられることがあるとするならば、この世が理不尽で不公平であるという事だけでしょう。
それを教えるのも大人の務めかもしれませんが、それは体罰を必要とするものではないでしょう。
桑田さんもおっしゃてますが、一方的な暴力は、単に人を萎縮させます。
傷の痛みは数日で癒えても、あい対した恐怖心や萎縮した心はそうそう癒えません。
そもそも反撃がないという図式に乗っかっての暴力は“卑怯”というものです。
「きをつけ!」「避けるな!」と言いい、両手を下にした直立不動の人間を殴るってどうなんでしょう。
国連憲章が成立したこのご時世では戦争の世界ですら国際法違反な行為です。
そんな図式で“愛の鞭”を盾に暴力を振るう人は、そこまでの人間なのでしょう。
行いを振り返り、反省していただきたい。