大人はバカな子どもであってほしい | サラリーマン弁護士がたまに書くブログ

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2019年7月にうつ病を発症したことをきっかけにブログを始めたサラリーマン弁護士が、書きたいことをたまに書いています。

今日は,西野亮廣さんの言葉をきっかけに,少し考えてみます。

 

この動画でも話されていますが,西野さんは,今年の冬に,映画『えんとつ町のプペル』の公開を控えています(この絵本はものすごくおもしろいので,このブログ読むよりも,今すぐこちらのページで,全部読んでください。全ページが無料公開されています。これに関するブログも書いています。リンクはこちら。)

 

映画『えんとつ町のプペル』の公開に先立ち,西野さんのインタビュー動画がYou Tubeで公開されています(リンク:こちら)。

 

この中で,西野さんは「子どもをバカにしない」ということを,作品作りにおいて大切にしているということを話されています。

 

この「子どもをバカにしない」,「子どもをナメない」といのは,西野さんの発言の中で,結構よく出てきます。

 

これを踏まえて,今日は,少し考えてみたいと思います。

 

この「子どもをバカにしない」,「子どもをナメない」というのは,西野さんの絵本について,「これって子供用ですか?」と聞かれることが多いそうで,この質問について,西野さんとしては,「子どもをバカにしている」と思っていらっしゃるようです。

 

(ここからは,西野さんの発言を参考にした,僕の考えを書きます。)

 

「子ども用ですか?」

この質問は,ちょっとおかしい。

 

そもそも,子どもって,「子ども用の作品」しか見ちゃいけないわけじゃないんですよね。

何を見たっていい。

 

そんな中で,絵本を買おうとするお母さん・お父さんが,「子ども用」かどうかを気にする。

 

これは,結局,自分の子どもがそれを気に入るかどうかを考えた発言ではなくて,「親自身が思い描くような,『子ども用』の内容で,その絵本は構成されていますか?」という質問なんですね。

 

「子どもは,いわゆる『子ども用』を与えてあげないと,理解できないでしょ」という,子どもをあからさまに下に見た態度が,この質問の背後に潜んでいる。

 

もっというと,「自分の子どもは,『子ども用』で満足するような,そういった,一般的な無邪気な子どもであってほしい」という,とても身勝手な願いも,前提になっていると思います。

 

じゃないと,「子ども用」かどうかを確認する必要なんてないからです。子どもには「子ども用」で満足していてほしい,そういった思いがあることは,なかなか否定できないと思います。

 

こういう,親側の身勝手な「思い込み」,そして,一方的な「希望」が,「子どもをバカにしてる」,「子どもをナメている」ことの意味です(と僕は思っています。)。

 

これは,非常にまずい。

親が子どもをバカにしている・ナメていると,その子どもが将来幸せになれなくなっちゃうかもしれません。

 

このブログでも書きましたが,「自分の興味関心を掴み取れて,言語化して精緻に語れたら,それが幸せ」なんです。

しかし,親が,「子どもは『子ども用』しか理解できないでしょ」,「子ども用しか理解できないでいてほしい」などと思っていると,「自分の興味関心を掴み取る」ことはできなくなってしまいます。

 

なぜなら,子どもは,「本能的に」,親の希望を叶えるからです。

子どもは,いつも生存の危機に瀕しています。自分ひとりでは,食べる物を用意できないし,外敵から身を守ることもできません。だから,子どもは,自分が存在するコミュニティにしがみついて生き残るよう,遺伝子に組み込まれています。

 

核家族化が進んだ現代の場合は,「親」にしがみつく必要があるわけです。「核家族」という自分のコミュニティの中心で支えているのは親ですから。

 

だから,子どもは,自らの生存本能で,親の希望を叶えます。

そうすれば,親が食べ物を与えてくれますし,外敵からも身を守ってくれます。

 

この「親の希望」というのが,「『子ども用』で満足するような,無邪気な子どもであってほしい」であれば,子どもは,その希望を叶えます。その結果,子どもは,自分が本当に満足するのが「子ども用」なのかどうか,判断しなくなるんですよね。

「自分が子ども用で本当に満足するかどうか」という疑問は不要なんです。

自分が生きるためには,「自分が子ども用で満足する」という親の希望を叶えることが必要で,それで足りるからです

 

そうすると,どうなるか。

もちろん,人それぞれだとは思いますが,「自分の興味関心は何か」を考えなくなる,あるいは,自分の興味関心よりも,自分の生存本能を優先し,親の希望ばかりを気にしてしまう,そういった末路になってしまう人も出てくるんですね。

 

本来なら,親の希望を叶えることが自分の人生じゃないと気づくことが必要なんですが,それができない人もいると思います。

 

(この,生存本能による「親の希望を叶えること」から離脱=自立しようとしている期間が「反抗期」と僕は思っているのですが,(つまり,心身ともに成長するにつれ自立を望むようになるけれども,まだまだ親に頼らなければ生きていけない状態でもあるから,自立したいという気持ちを実現できないことにいらだつということです。だから,反抗期があるのは,僕はいいと思っています。きちんと,自分の生存本能からくる親への依存を断ち切ろうとしているわけですから。ちなみに,僕は反抗期ありませんでした。「親に反抗なんかしちゃいけない」と思っていました。本当に,生存本能に正直だったと思います(笑))

 

だから,「子ども用」を親が気にしていると,子どもが「興味関心を掴み取る」ことができなくなり,将来幸せになれなくなってしまう(人もいる)というわけです。

ちょっと極論っぽいですが,けっこう多くの人に当てはまると思います。

 

ここで,「親だって,昔は子どもだったのに,どうして子どもの時のことを忘れちゃうんだろう?」という,手垢のついた質問がくるかもしれませんが,これは,的確じゃないと思います。

 

僕は,「親だって,生存本能に基づいて,その親(祖父・祖母)の言うことを聞いていたんだから,自分の子どもに,同じようなことを期待してしまうのは当然でしょ。」と思います。親だって,その親(祖父・祖母)の思い込みや希望を察知して,叶えてあげていたのです。「子供の時のことを忘れちゃった」のではありません。「子供の時のことをよく覚えている」から,色々と子どもに干渉するんだと思います。この視点が必要と思います。

 

だから,これは連鎖すると思います。

親の希望を叶えてあげた子が親になり→その子がまた親の希望を叶えてあげる→

このループです。

 

このループは,どこかで断ち切らなければいけませんよね。

これだと,いつまでも「自分の興味関心を掴み取る」という子が出てきません。

 

断ち切る具体的な方法は,ちょっと思いつきませんが,僕の場合は,病気で痛い目にあって気づきました。

 

(まあ,僕の場合は,親の影響というよりは,勝手に親の希望だったり,世間的にあるべき姿を作り出して,それに達していないことを嘆くという,かなり面倒な性格があることが要因とは思いますが。)

 

子どもがいない僕が言うのも説得力に欠けますが,僕が思う子育ては,親自身が人生を楽しむ姿を見せることだと思うんです。

子と親は違う存在だから,当然,興味関心は違う。

だからといって,親が子どもの興味関心を見つけてあげるのも違います。アドラー心理学的に言えば,子ども自身の興味関心を見つけるのは,子どもの「課題」だからです(アドラー心理学については,こちら)。

親が人生を楽しんでいたら(親が自分の興味関心に素直だったら),楽しい人生の1つの例を見せてあげることができて,とても良いと思います。

 

また,「自分の興味関心を掴み取れない」と,「いじめっ子」になる可能性も高くなっちゃうと思います

 

これも,西野さんの言葉ですが,いじめは「娯楽」です。

だから,いじめよりもっと楽しいことがあれば,いじめは起こらない。

 

これは,僕も同感です。

いじめという娯楽は,そんなに楽しくない。

もっと楽しいことがあったら,いじめに費やす時間なんて無駄です。

毎日ゲームが楽しくて仕方なかったり,勉強に夢中だったりすれば,いじめなんかしてる暇ありません。

 

ただ,その「楽しい」を決めるのは,自分なんです。

そして,「楽しい」を見つけるために必要なのが,「自分の興味関心を精緻に言語化する」能力です。これが,身につかないままだと,「いじめ」という単純な娯楽に走っちゃう。

 

 

 

「親が,大人が,子どもをナメない,バカにしない」

 

この文脈で書いてきましたが,子どもの側だって,バカにされていること,ナメられていることに気づいていいのです。

 

昔は,情報がマスメディアや親に独占されていたので,自分がどういう立場にあるのか,子どもには誰も教えてくれませんでした。

学校が,親が,社会が押し付けてくる勉強や価値観に従って生きていくしかなかった。

 

でも,今は,子どもだってインターネットに触れることができます。

そして,その中で勉強して,自分がバカにされていること,ナメられていることに気づけばいい

 

「スマホ持っちゃダメ」と言う大人がいるけれど,それは,子どもが情報を獲得して,自分より優秀になるのが怖いからなのかな,と思っちゃう。

子どもには,大人が思う通りの無邪気な存在でいてほしい,という,身勝手な希望が,「スマホ持っちゃダメ」には見え隠れします。

 

「目が悪くなる」ともっともらしく言う大人もいるけれど,それを言ったら,誰もスマホ持てなくなります。スマホの普及で,大人の近視も増えていますからね。

 

子どもにもスマホもたせる。

1人の人間として尊重する。

もちろん,1人では生きていけないから,社会で支えるけれども,自分の興味関心を掴み取ることの邪魔をしてはいけない。

 

最後に,そもそも,進化論的には,年下のほうが優秀です。

だから,「ナメない」どころか,年上は年下に追いつくべく,努力しなければならないのです

 

長く生きてくると,年下が増えて大変だ(^_^;)

 

それではまた明日。

 

 

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