『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健 2013年 ダイヤモンド社)
約6年前に出版された,アドラー心理学を基に書かれたベストセラーです。
哲学者と青年の対話形式でアドラー心理学の真髄について述べられています。
はっきり言います。
名著です。
おもしろい。
もう僕はアドラー心理学で生きていきます。
そう決意させるような本でした。
(ただ,アドラー心理学を真に身につけるには,アドラー心理学を知った時点の年齢の半分の期間が必要になるそうです。だから,僕がアドラー心理学を身につけるのは,45歳頃になるわけですが(笑)。もっと早く読んでおきたかった・・・)
閑話休題
題名の「嫌われる勇気」についても,本文中できちんと説明されています。
(というか,アドラー心理学は,悩みや幸せの定義を明確にかつ簡潔に提示しているところがすばらしいし,なにより,その内容が真髄に肉薄しているからすごい。)
そもそも,誰からも嫌われずに生きている場合,それは,あらゆる人の顔色をうかがって生きているから,結局,他人に自分の人生を縛られているため,自由を享受していることにはならない。とすれば,自由を享受している場合,それはすなわち,人に嫌われているのである。つまり,自由に生きるためのコストとして,「人から嫌われる」ことが避けられない。自由に生きるためには,人から嫌われる勇気を持つことが必要である。その勇気が持てれば,他人に縛られない自由な人生を送ることができる。
題名についての説明はこんな感じです。
ただ,「嫌われる勇気」なんて言葉は,アドラー心理学における核心の周辺部分でしかありません。
アドラー心理学は,「悩みのタネは全て人間関係である」と断定した上で,幸福の定義についても述べています。
「悩みのタネは全て人間関係である」の根拠については,ご自分で読んでいただくとして,ここでは,幸福の定義について説明します。
幸福というのは,「自分が社会に貢献したことを感じたときにのみ感じる」とされています。
文中では「貢献感」と呼ばれています。
「自分が社会に貢献したという実感」こそが幸福の正体というのです。
さらにいうと,その「貢献感」は,自分の「行為」に対する相手からの評価では決してないのです。つまり,承認欲求の満足が幸福というわけではない。
自分の存在自体が社会への貢献であることを心から実感した際(自分の存在自体に価値があることを感じた際),その実感こそが幸福の正体なのです。
僕は,このように解釈しました。
これは,本当に目からウロコでした。
僕はこれまで、行為にしか価値を見出だしていませんでした。
「何者でもない自分は,自分の行為によって価値を生み出し続けないといけない」
そんなことばかり考えていました。
しかし,その考えは,幸福から最も遠いものだったのです。
アドラー心理学は,自分の行動ではなく,その存在自体に社会貢献を感じたときに,その気持ちこそが幸福であると説明しています。
ここで「社会」というものは,「地域社会」などで思い浮かぶような広いものだけではありません
心理学では,社会の最小単位は,「わたしとあなた」です。
つまり,自分以外にもうひとりいれば,それで社会が始まるのです。
ということは,自分以外の誰か,たった1人であったとしても,その人に貢献できたことを,自分の主観として感じたとしたら,それは幸福を味わっているのです。
僕は,この,アドラー心理学が説明するところの幸福の正体について,実体験があるのです
というか,『嫌われる勇気』を読んで,かつて感じた気持ちの正体が理解できたのです。
その「気持ち」というのは,僕の彼女がしたためていた書き置きが,ものすごく嬉しかったことです
僕は,その書き置きが,涙が出るほど嬉しくてたまらなかったのです。
内容は,「冷蔵庫の中におかずが入っているよ」とか「また明日ね」ということが書かれていて,紙の角にちょっとした絵が描かれているくらいのもので,何か特別なことは描かれていません
でも嬉しかった。この嬉し涙の正体が,やっとわかりました。
これこそ,「私と彼女」という「社会」の中で,私の存在自体に価値があること(彼女の役に立っていること)を実感したため,幸福が訪れたのです。その幸福が大きすぎて(爆発に近かった),涙が出たのでしょう。
僕は,これまで,恋愛関係においても,それ以外の人間関係であっても,自分の行為によって価値を生み出す必要があると思っていましたが,そうではなかったのです。幸せのためには,自分の行為に着目するのはお門違いなのです。
このことは,アドラー心理学と,僕の実体験から,充分説得的に説明することができます。
少なくとも,僕は,アドラー心理学でスッキリ理解することができました。
手紙なんかもらったことがなかったから嬉しかったと思っていたのですが,そうじゃなかったんですね。
最後に本の内容を少しまとめると,
幸福の正体である「貢献感」は,「共同体へコミットする」すなわち,自分が何かしらの社会(対人関係)に帰属し,その社会に貢献することが必要となります(ただ,その貢献行為そのものを評価されても幸福を感じないことは,既にお話したとおりです)
そして,人間関係(=社会)は,「課題の分離」から出発します。
「課題の分離」とは,自分の領分と相手の領分を線引きし,相手の領分には介入しないことです。例えば,「子どもが勉強しない」という問題がある場合,その問題の最終決定権(勉強するかしないかを決める権利)は親ではなく子どもにあるので(勉強しないことによる不利益を最終的に受けるのは子どもにあるからです。責任の最終的な所在が子どもにあると言い換えることもできます。),親は「勉強しなさい」と言うことは許されません。子どもの領分に介入しているからです。
この「課題の分離」がスタート地点で,ゴール地点は「共同体感覚」とされています。
「共同体感覚」というのは,「自分の居場所はここだ」という帰属意識です。「自分はここにいていいんだ」という安心感です。
これを生み出すのが,共同体(「社会」と言い換えてもいいでしょう)への貢献です。その貢献を繰り返すうちに,自分の存在自体が共同体(社会)にとって有益であると主観的に実感できると,幸福を感じられる。
僕は,ざっくりまとめると,こういうふうに解釈しましたね。
堀江貴文は,このアドラー心理学に,自分で到達したそうです。
(こちらで「車輪の再発明した」と言っています。ホリエモンはんぱねー)
この本に書かれているとおり,僕は,読み終わったこの瞬間から,幸福になれそうです。
なぜなら,僕の存在自体に,共同体への貢献を感じてしまったからです。
そして,ここもおもしろいのですが,この貢献感に満足しないのです。
この貢献感が幸せなのであれば,さらに仕事をして社会に貢献し,お客さんから感謝されて,自分が社会へコミットする感覚,すなわち,貢献感を味わいたいと思ってしまうのです。
ああ,幸せになれそうで嬉しいです。
この本には,ここに書ききれないほど,たくさんの知恵を読者に与えてくれます。
みなさんもぜひご一読を。
僕のつたない文章では,新興宗教のようにも見えてしまうのが大変不甲斐ないのですが,とてもオススメの本です。
それではまた明日
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