【開拓史 79 開拓使&屯田兵 ロシアの南下24】 | 桜東行のブログ

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開拓史

開拓使&屯田兵
パート24

ロシアの南下⑪

【樺太島仮規則④】

小出氏の稟申書について記載してきた。
前ブログで地図の不完全さと開拓の不十分さを挙げた稟申書をみてみたが、それに続くものを最後に掲載する。

抑唐太島ノ儀ハ、往占肅愼靺抔ト唱候國ニテ、皇國江來聘、貢物ハ奉候得共、自然彼ノ國主御座候ニテ、六十餘州トハ大ニ相違仕、齋明天皇ノ御時、阿倍比羅夫後方羊蹄江政所ヲ建、戓肅愼ヲ征候儀ハ諸書ニ有レ之候得共、其地ノ全ク 皇國ノ御版圖ト相成候明文無レ之、文化ノ初年ハ 皇國ヨリ彼地江漁場ヲ開候儀モ無レ之、彼地ノ土人共、元蝦夷地宗谷江來、小丹品等持参、私ニ貿易仕居候程ノ儀ニテ、安倍賴時ノ奥地山丹地方迄相越候説モ有レ之候得共、素ヨリ 皇國ノ御版圖ニ仕候儀ニテ、無レ之、全ク文化ノ比、舊幕府ニテ世話有レ之候以來、彼地江漁場等モ開候儀ニ有レ之、上古ノ儀ハ心得不レ申候得共…

【引用:近代日本史外交研究 細川亀市著

このような小出氏が取り上げた先例は非常に興味深い。
の文、つまりは幕府が樺太南部でも漁場開拓などに着手しておれば樺太島仮規則があのような結果にならなかった、と分析しているのだろう。

樺太島仮規則調印後、ロシアは直ちに行動する。
久春古丹に兵舎と流刑囚収容所が建てられるまで1年かからず…というから日本側がいかに後手を踏んでしまっていたか分かるだろう。
さらに極悪流刑囚などにより治安が一気に悪化した。窃盗を筆頭に殺人・強姦などが発生し、現地の人々(アイヌの人々など)にその火の粉が降りかかった。
これは北海道開拓にも見られるが罪人による開拓の始まりであったが、あまりに罪人による犯罪が後を絶たない為に進まなかったという。

こうして日本は樺太の支配権を失っていった。しかし、条約はあくまでも【雑居地】なのである。
力では大きく開きのあったロシアに対して
その後、日本はどう向き合っていったのか。また、樺太にいた日本に属していた人々はどうなったのでしょうか。

以上が★暫定★小出使節団の話であります。後に追記をするだろうという事で暫定としときます。

後に榎本武揚氏が樺太千島交換条約という条約を結ぶにあたり、この樺太の様を糾弾したという話がある。
榎本武揚氏については深く調べていかねばならない人物の一人でもなるので順を追って調べてみたい。

【条約調印後の日本】

さて、話は日本に戻る。
慶応3年2月25日に樺太島仮規則が調印された事の詳細が箱館奉行所届くのは6月の事であった。
恐らく風の噂では把握していたのではないか…とおもったりしますが、とにかく箱館奉行所に正式に届いたのは6月1日だった
(杉浦梅潭日記)

小出大和守秀実氏が帰国後、誰にどのような報告をしたのか追ってみた所ペテルブルグの後半辺りから身体を悪くし、日本に到着してからも将軍拝謁すらままならない状態であったという。
その後は前ブログに記載した役職に就いたのだが果たして体調不良のまま満足な仕事が出来たのだろうか。
写真を帰国途中に撮ったらしいが、残念ながらまだ未見であります。

さて、話は箱館奉行所に焦点を当てたい。

樺太島仮規則の第一条にこうあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。

不和のことあらば、裁断は其所の司人共へ行すべし、若其同人にて決し難き事件は双方の奉行にて裁断すべし

この奉行を担当するのが箱館奉行所なのである。
この時、箱館奉行をつとめていたのが

杉浦誠(梅潭)
【開拓史 67】←詳細はこちら

でありました。
この杉浦氏が樺太であった決し難き事件をどう解決したかのか気になる所だが、結果から言うと彼の任期内ではそのような事件が持ち上がらなかったのだ。

しかしこの樺太島仮規則調印の報が届く前にロシアと一悶着があった。
久春古丹にロシアが勝手に建物建て始めたという報を受けた杉浦氏は領事ビューツォフ氏に抗議のため、大工町のロシア領事館に出向く。慶応3年4月の事である。

【マップアプリより○内の北部が真縫(マーヌイ)・南部が内淵(ナイブツ)


この時はまだ樺太島仮規則の報が来ていない。杉浦氏はビューツォフ氏と激しいやり取りをし、ついに取り払うという言葉を引き出した。
この話は結局、国内事情の変化により実行されなかったのではないだろうか。

この慶応3年という年は大政奉還がなされた年でもある。
当然、その影響は箱館奉行所にも及ぶのだがその詳細は追って記載するとして、杉浦氏は最後の箱館奉行でもある。
彼が新政府に箱館奉行所を引き渡したのだ。その手腕は見頃で滞りなく引き渡しが終わってから間もなく新政府に召出され唐太地取調御用掛を命じられた。
彼は樺太国境問題についても調べ上げ、新政府に提出していた。
この杉浦氏の樺太についての報告書は新政府にとって樺太の状態を知るに非常に役立ったに違いないだろう。

一度江戸に戻った杉浦氏はまた北海道に戻り後に開拓使判官として活躍するのである。

【ロシア樺太監獄余話】

先にロシアが流刑囚収容所を設置した為に【樺太の治安が悪化した】と記載した。
のちに樺太には監獄が複数設置された。
これは明治14年にロシアが樺太のコルサコフ(南渓町)ヅエー(北樺太)の二箇所を
正式に監獄と定め、後にアレキサンドルフスク、ルイコフ、デレビンスコエ、オールの4箇所を設置し囚徒の住む島となった時の話である。
【参考 北蝦夷秘聞 樺太アイヌの足跡 能仲文夫著より】

流刑囚が出獄後いかに土着し開発に携わってもらえるかが課題だった。
それで刑期中に品行試験期・改悛期の二期を設け試験期終了後は改悛期に編入し、大いに囚人の懐柔につとめた。

1890年には上記監獄総計
看守数 337人 
品行期中囚人 2692人
改悛期中囚人 3604人

という規模になっている。
改悛期を終えた者は流刑殖民と言われ、織
工・市人・商人などになる事を許された。
1897年には村落133、戸数1899 人口13701人を数えるようになっていった。

この囚人を監視する看守であるが、日夜酒女・賭博などに耽っていたという。
そんな看守の元で囚人が改悛するはずもない。そんな惨状をハウエー氏の極東紀行という著者に見られる。

樺太仮規則調印が1867年2月、樺太千島交換条約が1875年5月である。
樺太仮規則調印から23年後の1890年でこの惨状だという事は、設置間もない監獄付近の様子が目に浮かぶのは私だけではないだろう。