信仰は学問としての教義、あるいは哲学がなければ
それは単なる盲目です。

そして信仰なしのそれは単なる詭弁です。

しかし、以上が十分なものでないということを知る人は
残念ながら、本当に少しです。
どんなに美しいものでも、時の経過と共にその美しさは薄れ、しばらくするとそれはまた美しく感じられ(あるいはその美しさが蘇りますが)ますが、やはりそれもいつかは去ってゆくのです。

しかし、また今度は別の種類の美しさがそこには芽生えるのです。
愛という名がそこには付けられています。

因果応報の名に繋がれて
光と影が交差し 映し出す未来

小さな習慣がやがてその人を形作るように
小さな行いの連続がその人の未来を導いてゆくだろう

大きな波に人は逆らう事はできないけれど
小さなものは少しは変えられる
つまりやがて大きなものになってゆくそれを
千の鶴達と、もう二度と出会うこともないのかな。
遠い日々が懐かしく感じる。
例えば、人との会話と文字に起こしたそれとは少し違ったものになる。

それはなぜだろうか。
『対話編』に於いて、アリストテレスはプラトンのイデア説を否定したが、プラトンとは別の形で神の照明を試みていたと思われる。二世紀後半に懐疑派の哲学者で医師をかねたセタストゥス・エムペイリコスがその『Adversus Mathematicos Ⅲ(学者を駁するの書第三)』に於いて伝えているところによると、

「アリストテレスは、人間に神々の観念が生まれるのは二つの源から、すなわち霊魂に関する事象と、天空の事象からであると論じていた。......」 人類の知的遺産 アリストテレス 今道友信 (p151)

つねに新たにして増しきたる感嘆と崇敬とをもって心をみたすものが二つある、わが上なる星ちりばめる空とわが内なる道徳律とである。 カント 実践理性批判

アウグスティヌスは、自然の法則と自己の良心にその神聖を認める傾向にあった気がする。

トール・ノーレットランダーシュ著/柴田裕之訳『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』 岐阜大学後期 2010
デンマークでベストセラーになった脳と人間の意識に関する抜粋


 (実験が有効であるという確認後)結果に疑問の余地はなかった<準備電位>が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.2秒前だった。したがって、決意の意識は、<準備電位>の発生から0.35秒*遅れて*生じることになる。

 「脳が行為の開始を、あるいは少なくともその準備を『決める』のが先であり、その後でそうした決意が生じたという報告可能で主観的な自覚が起きることは明らかだ」と、リベットと同僚たちは結果をまとめた論文に書いている。彼はさらに続ける。「結論を言えば、本実験で調べたような自由意志による自発的行為でさえ、脳レベルでは*無意識のうちに*始動しうるのであり、また、現に通常、始動しているのだ」
 その数年後のリベットの言葉を借りれば、こうも言える。「以上のことから、あらゆる意識的かつ自発的な行為が行われる500ミリ秒程度前には、特別な無意識の脳プロセスが始動していると考えられる」
 なんと、私たちの行動は無意識のうちに始まっている。自分で意識的に行動を決意したつもりでも、実際はその0.5秒前から脳は動き出している。意識が行為を始めているのではない。[...]この結論を聞いても異を唱えようと躍起にならない読者がいるとしたら奇妙な話だ。この結論は、人間はかくあるべしと私たちが日頃思い描くイメージと真っ向から対立する。

 何をするかは私たちが決められる、と意識は言う。しかし、どう考えても、意識は水面に立ったさざなみ程度の存在にしかすぎない。実際には意のままにできない物事を掌握しているふりをして、いい気になっているだけだ。意識は、決定を下さすのは自分で、自分が私たちの行動を引き起こしている、と主張する。しかし、実際に決定がなされるときは、その場にいもしない。意識は遅れてやって来るのに、そのことを黙っている。意識は自らを欺いている。だが、意識の持ち主たる私たちを欺かずに自分自身を欺くことなど、可能だろうか。意識の自己欺瞞は、私たち自身の自己欺瞞にほかならないのではないか。



---

478

 現象論をもとめるべき場所を誤ってはならない。すなわち、私たちがあの有名な「内官」でもって観察するこの内的世界にもまして、より現象的なものは何もない、(ないしはもっと明瞭に言えば)それほどはなはだしい迷妄は何一つない。
 私たちは意志を原因であると信じてきたが、これは、私の個人的経験一般にしたがって出来事のうちへと一つの原因を置き入れるほどにまでなるにいたった(言い換えれば、意志が出来事の原因であった---)。
 私たちは、私たちの心のうちで継起する思想と思想とは何らかの因果的連鎖をなしていると信じている。とりわけて、現実のうちではけっしてあらわれない抽象的な諸事例について実際に論じている論理学者は、思想が思想の原因であるとの先入見にとらわれてきているのである---。
 快と苦が反作用の原因であると、反作用への誘因をあたえることが快と苦の意味であると、私たちは信じている---また現今の哲学者たちですらやはりそう信じている。快および不快の回避が、まさしくいく千年かの長きにわたって、あらゆる行為にとっての動機として立てられてきた。いささか反省をくわえれば、「快と苦」というこれらの状態を欠くときでも、まったく同一の因果の連鎖にしたがって、すべてのものが同様に経過することを、私たちはみとめてよい。だから、それらの状態は何ものかをひきおこす原因であると主張するのは、簡単に欺かれているのである。---ところがそれは、反作用を呼びおこす状態とはまったく別の目標をもった随伴現象であり、すでに、開始されている反作用過程内での結果なのである。
 要約すれば、意識されるすべてものは、一つの終末現象、一つの結論であって---けっして何ものかをひきおこす原因とはならない。意識のうちでのすべての継起は完全にアトム論的である---。そして私たちは逆のとらえ方で世界を理解しようとこころみてきた、---あたかも、思考するはたらき、感情するはたらき、意欲するはたらき以外には、何ひとつとして結果を生ぜしめるものはなく、実在的ではないかのごとくに! ・・・

479

「内的世界」の現象論。年代記的逆転がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識されるにいたる。---私たちが学んでしまったのは、苦痛は肉体のある箇所に投影されるが、そこに座をしめているのではないということである---、私たちが学んでしまったのは、幼稚にも外界によって制約されているとみなされている感覚器官は、むしろ内界によって制約されているということ、すなわち、外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである・・・私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の「原因」として投影されている・・・
 「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・


*理想社 『ニーチェ全集』 第12巻
Music gives a SPiRiT to the universe, wings to the mind,
flight to the imagination, and life to everything." -Plato
シンポジウム「純粋経験」発表主旨

------------------------------


純粋経験の論理 —〈統一的或者〉が意味するもの —井上 克人(関西大学) 

西田哲学の中心問題は、その発展の全プロセスを通じて〈真実在〉であったと言っても過言ではない。明治44年に初めて刊行された『善の研究』では、主客未分の「純粋経験」がそのまま生きた真実在に他ならず、しかもそこに「無限の統一力」、「統一的或者」が看取され、含蓄的(implicit)な潜勢的一者が己自身を発展させてゆく、生きた全体として見られている。 こうした真実在の動性を内容とする純粋経験も、その最も直接的な主客未分の意識状態から思惟あるいは反省へと分化し分裂してゆくが、それは純粋経験そのものの深化発展のプロセスに過ぎず、純粋経験はそのプロセスを通じてどこまでも自発自展する一つの体系を保持しているのである。しかし、このような真実在の生きた体系の構造を叙述するのに、いわゆる「純粋経験」という概念でもってしては包み切れない問題が生じてくる。 昭和11年、『善の研究』の版を新たにするに際して、彼は、本書の立場が意識の立場を出でず、心理主義的色彩の強い性格をもっていたことを認めつつ、自分の考えの奥底には単にそれだけに尽きない問題が本書執筆の頃にもすでに潜んでいたことを述懐している。彼の考えの奥底に潜むもの、それはいったい何だったのだろうか。それは、一言でいえば〈超越〉への志向ではなかったであろうか。 純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつも、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つということに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。こうした論理的構造は、東洋的思惟の特質である「体・用」の論理、詳しくいえば、『大乗起信論』における真如と随縁の関係、宋学でいわゆる「理一分殊」の論理と符合するものであり、つまるところ、それは「内在的超越」の論理であった。 こうした西田哲学の根幹に潜む論理の視点から翻って、初期西田における「純粋経験」のもつ意味と特質を再検討してみたい。

------------------------------



>>主客未分の「純粋経験」がそのまま生きた真実在に他ならず、しかもそこに「無限の統一力」、「統一的或者」が看取され、含蓄的(implicit)な潜勢的一者が己自身を発展させてゆく、生きた全体として見られている。 こうした真実在の動性を内容とする純粋経験も、その最も直接的な主客未分の意識状態か ら思惟あるいは反省へと分化し分裂してゆくが、それは純粋経験そのものの深化発展のプロセスに過ぎず、純粋経験はそのプロセスを通じてどこまでも自発自展する一つの体系を保持しているのである。


これと、


>>一言でいえば〈超越〉への志向ではなかったであろうか。 純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつ も、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つということに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展 開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。


これとでは、随分、自己に対する考え方がが異なるということに、少なくとも、これだけの記述からは理解できるけれども、前者が、本当の意味での、純粋経験を意味するとするなら、後者は、プラトンのイデア的な発想を軸に「本来」の意味(「単に、西田幾多郎が意図したという意味ではない」)の、純粋経験から、かなりかけ離れたものとなっていることに、気がつくでしょうか。もっとも、後者は、分化した自己に対する説明であるから、違いがあるのは、当然といえば当然だけれども、純粋経験の本源的意味からてらしあわせて考えてみると、超越的志向という時の超越という概念が、だいぶ、あやしげなものとならざるをえないという性質を備えていると考えることができるということです。

わかりやすくいうと、未分化の主客というものを実体、一者、あるいは、何か(something)と考えるとして、どのように、分化した時における自己を、超越的志向でもって理解することができるのかということです。つまり、ここでいう、単なる己に関する超越的志向と(主客未分化の全体的な実体への、としてでない)、純粋経験の中で動化、発展する場合における自己という概念を仮に、それらが両立することができると考えたとしても、それは後付的な、もの/解釈によってそう理解できるにすぎないと、考えざるを得なく、根底的な態度でもってしたならば、そうはならないと感じるのはでないでしょうか。ということです。


世界の未分化性について(つまり純粋直接経験の純粋という部分)だとか、人間の言語による世界の分節化についてを、本当に理解した人ならば、このような意見に対して納得して頂けると、私は思います。


ちなみに、

>>純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつも、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つとい うことに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。

これが、宇宙的な視点からというよりは、極めて人間的な視点、発想から生じているということが、原因であると考えることができると思います。(時として、人間的な視点から、物事を述べるのというのも悪くはないけれども、この場合は、いささか妥当性を欠くということが、他の場合と比べて、少なくないのではないでしょうか)

p.s.
知り合いの人に一言、伝えたくて久しぶりに、人の書いたものに、意見してみました。
そのうち、記事がなくなるかもしれません。



        INTRODUCTION : PHILOSOPHY OF LOGIC TODAY
 

LOGIC AND PHILOSOPHY

It is standard in works dedicated to topics in philosophy and logic to distinguish between philosophy of logic and philosophical logic. There is no universally agreed upon way of dividing up these categories, and some authors prefer to conflate the two and treat the two phrases as more or less synonymous.

I do not have particularly strong reasons for distinguishing or running these concepts together. If pressed, I favor a terminology in which philosophical logic involves applications of any recognized methods of logic to philosophical problems or for purposes of advancing philosophical discussions, whereas philosophy of logic is the consideration of philosophical problems that arise in relation to work in any recognized branch of logic.By this stipulation, all of the papers in this volume belong squarely in the category of philosophical logic, and thereby also fall under the category of philosophy of logic so defined. The essays all raise problems for philosophical reflection at the same time that they illustrate the methods of logic in particular applications. By addressing the nature and limits of logic from both a theoretical and practical point of view, in the context of explaining the wide variety of different types of logic that have emerged in the recent proliferation of formal logical systems, the papers directly and indirectly engage central issues in the philosophy of logic while commenting on the principles of logic and its uses primarily in philosophy, mathematics and science.

Logic, like any other subject, depends on philosophical presuppositions. It raises conceptual and especially foundational questions that can only be profitably engaged by thinkers with rigorous philosophical training. The fact that so many logicians have also been philosophers, and that the motivation for so many important innovations in logic have derived from philosophical concerns about the clarification of concepts, problems and distinctions, means that logic and philosophy of logic are historically at least if not also thematically inseparably intertwined. It is only by understanding the complex justifications for formal logical apparatus, for the exact expression of ideas and deductively valid inference of sentences, that we can hope to fathom the explosion of logical systems that have appeared since the late nineteenth century through the latter half of the twentieth and continuing now into the twenty-first century. With every new addition to the vocabulary and mechanisms of formal symbolic logic there arise an exponentially greater number of philosophical questions about the meaning and implications of what logic introduces to the realms of mathematics and science.


IN THE LOGIC CANDY STORE

I want to introduce this handbook of essays in the philosophy of logic by raising a problem that I think holds a vital key to understanding the nature of logic in contemporary philosophy and mathematics. Not all of the papers in this volume do not directly address the question, but they provide ample raw material for reflecting on the kinds of answers that might be given.


                  ~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~ 
                  ~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~ 





                    WHAT IS LOGIC?


Jaakko Hintikka and Gabriel Sandu

1 LOGIC AND INFERENCE

It is far from clear what is meant by logic or what should be meant by it. It is nevertheless reasonable to identify logic as the study of inferences and inferential relations. The obvious practical use of logic is in any case to help us to reason well, to draw good inferences. And the typical form the theory of any part of logic seems to be a set of rules of inference.

This answer already introduces some structure into a discussion of the nature of logic, for in an inference we can distinguish the input called a premise or premises from the output known as the conclusion. The transition from a premise or a number of premises to the conclusion is governed by a rule of inference. If the inference is in accordance with the appropriate rule, it is called valid. Rules of inference are often thought of as the alpha and omega of logic. Conceiving of logic as the study of inference is nevertheless only the first approximation to the title question, in that it prompts more questions than it answers. It is not clear what counts as an inference or what a theory of such inferences might look like. What are the rules of inference based on? Where do we find them? The ultimate end one tries to reach through a series of inferences is usually supposed to be a true proposition. Frege [1970, 126] wrote that “the word ‘true’ characterizes logic.” But how does this desideratum determine the rules of inference? A few distinctions will illustrate the embarrassment of riches covered by the term “logic” and at the same time sharpen the issues.








Handbook of the Philosophy of Science. Philosophy of Logic
Volume editor:
Dale Jacquette
General editors:Dov M. Gabbay, Paul Thagard and John Woods
2007 Elsevier B.V. All rights reserved.

link