シンポジウム「純粋経験」発表主旨
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純粋経験の論理 —〈統一的或者〉が意味するもの —井上 克人(関西大学)
西田哲学の中心問題は、その発展の全プロセスを通じて〈真実在〉であったと言っても過言ではない。明治44年に初めて刊行された『善の研究』では、主客未分の「純粋経験」がそのまま生きた真実在に他ならず、しかもそこに「無限の統一力」、「統一的或者」が看取され、含蓄的(implicit)な潜勢的一者が己自身を発展させてゆく、生きた全体として見られている。 こうした真実在の動性を内容とする純粋経験も、その最も直接的な主客未分の意識状態から思惟あるいは反省へと分化し分裂してゆくが、それは純粋経験そのものの深化発展のプロセスに過ぎず、純粋経験はそのプロセスを通じてどこまでも自発自展する一つの体系を保持しているのである。しかし、このような真実在の生きた体系の構造を叙述するのに、いわゆる「純粋経験」という概念でもってしては包み切れない問題が生じてくる。 昭和11年、『善の研究』の版を新たにするに際して、彼は、本書の立場が意識の立場を出でず、心理主義的色彩の強い性格をもっていたことを認めつつ、自分の考えの奥底には単にそれだけに尽きない問題が本書執筆の頃にもすでに潜んでいたことを述懐している。彼の考えの奥底に潜むもの、それはいったい何だったのだろうか。それは、一言でいえば〈超越〉への志向ではなかったであろうか。 純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつも、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つということに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。こうした論理的構造は、東洋的思惟の特質である「体・用」の論理、詳しくいえば、『大乗起信論』における真如と随縁の関係、宋学でいわゆる「理一分殊」の論理と符合するものであり、つまるところ、それは「内在的超越」の論理であった。 こうした西田哲学の根幹に潜む論理の視点から翻って、初期西田における「純粋経験」のもつ意味と特質を再検討してみたい。
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>>主客未分の「純粋経験」がそのまま生きた真実在に他ならず、しかもそこに「無限の統一力」、「統一的或者」が看取され、含蓄的(implicit)な潜勢的一者が己自身を発展させてゆく、生きた全体として見られている。 こうした真実在の動性を内容とする純粋経験も、その最も直接的な主客未分の意識状態か
ら思惟あるいは反省へと分化し分裂してゆくが、それは純粋経験そのものの深化発展のプロセスに過ぎず、純粋経験はそのプロセスを通じてどこまでも自発自展する一つの体系を保持しているのである。
これと、
>>一言でいえば〈超越〉への志向ではなかったであろうか。 純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつ
も、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つということに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展
開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。
これとでは、随分、自己に対する考え方がが異なるということに、少なくとも、これだけの記述からは理解できるけれども、前者が、本当の意味での、純粋経験を意味するとするなら、後者は、プラトンのイデア的な発想を軸に「本来」の意味(「単に、西田幾多郎が意図したという意味ではない」)の、純粋経験から、かなりかけ離れたものとなっていることに、気がつくでしょうか。もっとも、後者は、分化した自己に対する説明であるから、違いがあるのは、当然といえば当然だけれども、純粋経験の本源的意味からてらしあわせて考えてみると、超越的志向という時の超越という概念が、だいぶ、あやしげなものとならざるをえないという性質を備えていると考えることができるということです。
わかりやすくいうと、未分化の主客というものを実体、一者、あるいは、何か(something)と考えるとして、どのように、分化した時における自己を、超越的志向でもって理解することができるのかということです。つまり、ここでいう、単なる己に関する超越的志向と(主客未分化の全体的な実体への、としてでない)、純粋経験の中で動化、発展する場合における自己という概念を仮に、それらが両立することができると考えたとしても、それは後付的な、もの/解釈によってそう理解できるにすぎないと、考えざるを得なく、根底的な態度でもってしたならば、そうはならないと感じるのはでないでしょうか。ということです。
世界の未分化性について(つまり純粋直接経験の純粋という部分)だとか、人間の言語による世界の分節化についてを、本当に理解した人ならば、このような意見に対して納得して頂けると、私は思います。
ちなみに、
>>純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつも、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つとい
うことに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。
これが、宇宙的な視点からというよりは、極めて人間的な視点、発想から生じているということが、原因であると考えることができると思います。(時として、人間的な視点から、物事を述べるのというのも悪くはないけれども、この場合は、いささか妥当性を欠くということが、他の場合と比べて、少なくないのではないでしょうか)
p.s.
知り合いの人に一言、伝えたくて久しぶりに、人の書いたものに、意見してみました。
そのうち、記事がなくなるかもしれません。