トール・ノーレットランダーシュ著/柴田裕之訳『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』 岐阜大学後期 2010
デンマークでベストセラーになった脳と人間の意識に関する抜粋
(実験が有効であるという確認後)結果に疑問の余地はなかった<準備電位>が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.2秒前だった。したがって、決意の意識は、<準備電位>の発生から0.35秒*遅れて*生じることになる。
「脳が行為の開始を、あるいは少なくともその準備を『決める』のが先であり、その後でそうした決意が生じたという報告可能で主観的な自覚が起きることは明らかだ」と、リベットと同僚たちは結果をまとめた論文に書いている。彼はさらに続ける。「結論を言えば、本実験で調べたような自由意志による自発的行為でさえ、脳レベルでは*無意識のうちに*始動しうるのであり、また、現に通常、始動しているのだ」
その数年後のリベットの言葉を借りれば、こうも言える。「以上のことから、あらゆる意識的かつ自発的な行為が行われる500ミリ秒程度前には、特別な無意識の脳プロセスが始動していると考えられる」
なんと、私たちの行動は無意識のうちに始まっている。自分で意識的に行動を決意したつもりでも、実際はその0.5秒前から脳は動き出している。意識が行為を始めているのではない。[...]この結論を聞いても異を唱えようと躍起にならない読者がいるとしたら奇妙な話だ。この結論は、人間はかくあるべしと私たちが日頃思い描くイメージと真っ向から対立する。
何をするかは私たちが決められる、と意識は言う。しかし、どう考えても、意識は水面に立ったさざなみ程度の存在にしかすぎない。実際には意のままにできない物事を掌握しているふりをして、いい気になっているだけだ。意識は、決定を下さすのは自分で、自分が私たちの行動を引き起こしている、と主張する。しかし、実際に決定がなされるときは、その場にいもしない。意識は遅れてやって来るのに、そのことを黙っている。意識は自らを欺いている。だが、意識の持ち主たる私たちを欺かずに自分自身を欺くことなど、可能だろうか。意識の自己欺瞞は、私たち自身の自己欺瞞にほかならないのではないか。
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478
現象論をもとめるべき場所を誤ってはならない。すなわち、私たちがあの有名な「内官」でもって観察するこの内的世界にもまして、より現象的なものは何もない、(ないしはもっと明瞭に言えば)それほどはなはだしい迷妄は何一つない。
私たちは意志を原因であると信じてきたが、これは、私の個人的経験一般にしたがって出来事のうちへと一つの原因を置き入れるほどにまでなるにいたった(言い換えれば、意志が出来事の原因であった---)。
私たちは、私たちの心のうちで継起する思想と思想とは何らかの因果的連鎖をなしていると信じている。とりわけて、現実のうちではけっしてあらわれない抽象的な諸事例について実際に論じている論理学者は、思想が思想の原因であるとの先入見にとらわれてきているのである---。
快と苦が反作用の原因であると、反作用への誘因をあたえることが快と苦の意味であると、私たちは信じている---また現今の哲学者たちですらやはりそう信じている。快および不快の回避が、まさしくいく千年かの長きにわたって、あらゆる行為にとっての動機として立てられてきた。いささか反省をくわえれば、「快と苦」というこれらの状態を欠くときでも、まったく同一の因果の連鎖にしたがって、すべてのものが同様に経過することを、私たちはみとめてよい。だから、それらの状態は何ものかをひきおこす原因であると主張するのは、簡単に欺かれているのである。---ところがそれは、反作用を呼びおこす状態とはまったく別の目標をもった随伴現象であり、すでに、開始されている反作用過程内での結果なのである。
要約すれば、意識されるすべてものは、一つの終末現象、一つの結論であって---けっして何ものかをひきおこす原因とはならない。意識のうちでのすべての継起は完全にアトム論的である---。そして私たちは逆のとらえ方で世界を理解しようとこころみてきた、---あたかも、思考するはたらき、感情するはたらき、意欲するはたらき以外には、何ひとつとして結果を生ぜしめるものはなく、実在的ではないかのごとくに! ・・・
479
「内的世界」の現象論。年代記的逆転がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識されるにいたる。---私たちが学んでしまったのは、苦痛は肉体のある箇所に投影されるが、そこに座をしめているのではないということである---、私たちが学んでしまったのは、幼稚にも外界によって制約されているとみなされている感覚器官は、むしろ内界によって制約されているということ、すなわち、外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである・・・私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の「原因」として投影されている・・・
「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・
*理想社 『ニーチェ全集』 第12巻
デンマークでベストセラーになった脳と人間の意識に関する抜粋
(実験が有効であるという確認後)結果に疑問の余地はなかった<準備電位>が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.2秒前だった。したがって、決意の意識は、<準備電位>の発生から0.35秒*遅れて*生じることになる。
「脳が行為の開始を、あるいは少なくともその準備を『決める』のが先であり、その後でそうした決意が生じたという報告可能で主観的な自覚が起きることは明らかだ」と、リベットと同僚たちは結果をまとめた論文に書いている。彼はさらに続ける。「結論を言えば、本実験で調べたような自由意志による自発的行為でさえ、脳レベルでは*無意識のうちに*始動しうるのであり、また、現に通常、始動しているのだ」
その数年後のリベットの言葉を借りれば、こうも言える。「以上のことから、あらゆる意識的かつ自発的な行為が行われる500ミリ秒程度前には、特別な無意識の脳プロセスが始動していると考えられる」
なんと、私たちの行動は無意識のうちに始まっている。自分で意識的に行動を決意したつもりでも、実際はその0.5秒前から脳は動き出している。意識が行為を始めているのではない。[...]この結論を聞いても異を唱えようと躍起にならない読者がいるとしたら奇妙な話だ。この結論は、人間はかくあるべしと私たちが日頃思い描くイメージと真っ向から対立する。
何をするかは私たちが決められる、と意識は言う。しかし、どう考えても、意識は水面に立ったさざなみ程度の存在にしかすぎない。実際には意のままにできない物事を掌握しているふりをして、いい気になっているだけだ。意識は、決定を下さすのは自分で、自分が私たちの行動を引き起こしている、と主張する。しかし、実際に決定がなされるときは、その場にいもしない。意識は遅れてやって来るのに、そのことを黙っている。意識は自らを欺いている。だが、意識の持ち主たる私たちを欺かずに自分自身を欺くことなど、可能だろうか。意識の自己欺瞞は、私たち自身の自己欺瞞にほかならないのではないか。
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現象論をもとめるべき場所を誤ってはならない。すなわち、私たちがあの有名な「内官」でもって観察するこの内的世界にもまして、より現象的なものは何もない、(ないしはもっと明瞭に言えば)それほどはなはだしい迷妄は何一つない。
私たちは意志を原因であると信じてきたが、これは、私の個人的経験一般にしたがって出来事のうちへと一つの原因を置き入れるほどにまでなるにいたった(言い換えれば、意志が出来事の原因であった---)。
私たちは、私たちの心のうちで継起する思想と思想とは何らかの因果的連鎖をなしていると信じている。とりわけて、現実のうちではけっしてあらわれない抽象的な諸事例について実際に論じている論理学者は、思想が思想の原因であるとの先入見にとらわれてきているのである---。
快と苦が反作用の原因であると、反作用への誘因をあたえることが快と苦の意味であると、私たちは信じている---また現今の哲学者たちですらやはりそう信じている。快および不快の回避が、まさしくいく千年かの長きにわたって、あらゆる行為にとっての動機として立てられてきた。いささか反省をくわえれば、「快と苦」というこれらの状態を欠くときでも、まったく同一の因果の連鎖にしたがって、すべてのものが同様に経過することを、私たちはみとめてよい。だから、それらの状態は何ものかをひきおこす原因であると主張するのは、簡単に欺かれているのである。---ところがそれは、反作用を呼びおこす状態とはまったく別の目標をもった随伴現象であり、すでに、開始されている反作用過程内での結果なのである。
要約すれば、意識されるすべてものは、一つの終末現象、一つの結論であって---けっして何ものかをひきおこす原因とはならない。意識のうちでのすべての継起は完全にアトム論的である---。そして私たちは逆のとらえ方で世界を理解しようとこころみてきた、---あたかも、思考するはたらき、感情するはたらき、意欲するはたらき以外には、何ひとつとして結果を生ぜしめるものはなく、実在的ではないかのごとくに! ・・・
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「内的世界」の現象論。年代記的逆転がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識されるにいたる。---私たちが学んでしまったのは、苦痛は肉体のある箇所に投影されるが、そこに座をしめているのではないということである---、私たちが学んでしまったのは、幼稚にも外界によって制約されているとみなされている感覚器官は、むしろ内界によって制約されているということ、すなわち、外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである・・・私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の「原因」として投影されている・・・
「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・
*理想社 『ニーチェ全集』 第12巻