「運命」って、なんだと思われますか?
「運命」を辞書で引くと、幸不幸をもたらす超自然的な力と出てきます。
自分の理想に沿うものが、運命というわけでなないのです。
「そういう運命だったんだよ」
「運命は変えられるはずだ」
「私の運命の人は?」
いろいろなところで使われる「運命」ですが、それは、生まれたときから決まっていて、どんなことがあろうと、そこに意味があると思いますか?
私はそうは思いません。
通り魔や事故に遭ってしまったり、思わぬ災難に巻き込まれてしまうことにも意味があり、運命の定めだったから、それでよかったのだと言えますか?
そんなのあんまりですよね。
ラッキーな運命が訪れても、それをしっかり掴めない人もいて、同様に、望まぬ運命が訪れた際に、それ好転させて、好ましい運命に変えてしまう人もいます。
その人にとっての好ましい運命と、好ましくない運命という流れがあり、こうした運命を黙って受け入れるだけが答えではないでしょう。
運命は、はじめから決められているものではないのです。
とはいえ、何らかの流れが生じた際には、その流れのままに、待ち受ける運命に突き進んでいくことになるのではと。
たとえば、昔は日本でも、貧しい家の子どもの口減らしが普通に行われていました。
家族や村の人々にとって、1人の食い扶持が増えるか減るかは、本当に切実だったのです。
労働力にならない高齢者が姨捨山に連れて行かれ、年端のいかない子どもは、手がかかるだけで足手まといとされたのでしょう。
将来の労働力になる男の子は残し、女の子は商家などに奉公として出され、安いお給金で、住み込みの子守娘となり、年頃になると、遊郭に売り飛ばされていったという……「呪い」について調べると、遊女の呪いが圧倒的に多いことにも頷けてしまいます。
与えられた運命に逆らうことも許されず、それを受け入れるしかなかった人々が大勢いたということです。
男女差別が騒がれる現代ですが、昔はどの国でも、目立つ仕事の大半は力仕事で、今のように多様な職種もなく、結果として、女性の扱いが悪くなっていたのではと考えられるでしょう。
ところで、自活のできない子どもたちは、親が決めた通りの道「運命」を歩むしかありません。
これは時代に関係なく、現代にも通じることでしょう。
しかし、人権も確立されていない時代では、さらに酷い状況を生み出していたはずです。
大人になってからも、今ほどの選択肢があったわけではなく、政略結婚やいいなずけとして嫁がされる娘がいたり、継ぐ家のない次男や三男たちも、相応の生き方を模索していたでしょう。
現代は、結婚も離婚も何度でもできて、それが普通のことになってきています。
結婚するのが当り前という時代は終わり、人権を主張して自由に生きられるようになってきた証拠でしょう。
自由度が上がると、選択肢が増えることになります。
昔は選択の自由もなく、決められた運命を歩まされるか、少ない選択肢しかなかったものが、今は無限大の選択肢にまで広がって、選べない人=決められない人が増えることになったのでしょう。
決められないとなると、「運命」が恋しくなる……「あなたはそういう運命です」と言われたほうが、あきらめもつくし、自分で決めて後悔することはなくなると思えるからです。
でも、本当は違うでしょう。
運命は、日々の小さな決断の積み重ねの先に訪れる流れで、自分の行動がもたらした結果なのです。
朝、布団から出たくないときに、「あと5分寝るかどうか」「思い切って飛び起きて、ラジオ体操をするかどうか」からはじまり、着て行く服で迷い、「ランチでAセットとBセットのどちらにするのか」を決めながら、決断を繰り返す日々を送るのが人間です。
こうした些末な決断の中に、「この件は、私から誤っておくべきなのかどうか」「ここは思い切って、本音をぶつけたほうがいいのか」「この縁談はなかったことにするべきか」「今はまだ、転職はせず、もう少し頑張ったほうがいいのか」といった、大きなテーマが紛れ込んできます。
一生を左右する決断になるかもしれないけれど、それも、ランチセットを選ぶのと同じように、自分で決めていくのです。
すると、ふと気付いたときに、大きな流れが生まれ、それに飲み込まれるのか、流れに乗って飛躍するのかという運命がめぐってくるでしょう。
運命は、決断の積み重ねの先に訪れるのです。
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