原型師は燃えているか? -2ページ目

原型師は燃えているか?

見せてもらおうか そのオヤジの奮戦とやらを

30年以上昔の学生時代、イラストの課題で描いたドーハン軍曹(ジェームズ・カーン)。

リキテックスで描いたんだと思う。

中学の時に買って、何度も何度も繰り返し読んだ『戦争映画大カタログ』のモノクロスチールを模写した。

ショルダースリーブインシグニアが82師色になっているけど実際は101師だよね。

小学校4年に生まれて初めて劇場で洋画を観たのが『遠すぎた橋』で、以来82贔屓だったもので(笑)。

 

 

ジープで直属の大尉を助けるシーンが有名だけど、登場時に45口径拳銃を分解していたのが印象に残る。

スライドをレールに滑り込ませスライドストップを入れて一度スライドを引く。

ガチャン

下に向け引鉄を引きハンマーを落とす。

パチッ

これを流れるようにこなし、プロ感のあるベテラン下士官

を演出していた。

ガンマニアにはシビれるシーンだ。

 

銃の握り方も70年代(1977年公開)のダブルハンドホールドになって「いない」のが良い。

60年代くらいまで、拳銃は基本片手で握って撃つものだったから。

ウソだと思うなら60年代以前の古い映画を見てみればいい。

皆片手で拳銃を撃っているから。

(ストック付マウザーを使う『殺しのライセンス』等一部例外はある)

仕上げにポスターカラーも併用して、若干厚く塗ってみた。

こういうキャラ絵の塗りを絵の具でやったのも、やはり30年ぶりくらいになるだろうか?

まだ下手クソだな。。。。。w

B5 TMKポスター ぺんてるエフ水彩とニッカーポスターカラー、サインペン

 

お題はTV版『吸血姫美夕』。

1998年放送のアニメなので口を小さめに描いてみた。

ツイッターやフェイスブックに上げたものより背景に少し手を加えている。

 

TV版はOVA版に比べ勧善懲悪感があり、TVアニメ版の鬼太郎のような作品になっていて私にバッチリはまってしまった。

加えて全体に流れる無常感も良かったし、川井憲次さんの音楽も絶品だった(同じCDを二枚持ってるくらい)。

後にメインシナリオライターである早見裕司さんが私と同じ青森県出身と知り、何か符号したような気がした。

 

同じ頃、Macを買って自分でPCを使うようになった。

ネットのハンドルネームをこの作品の登場人物から取って「ラヴァ」にした。

以来20年以上、このHNを使うことになる。

そういう意味でも思い出深い。。いや私の中では未だ「現役」の作品で繰り返しサウンドトラックを聞いている。

この絵も、もちろん聞きながら描いたのだった。

 

原型仕事をやるためにプレイして『サクラ大戦』にハマってしまったと前回書いたが、その後舞台にも何度も足を運ぶようになった。

ネット友人に誘われたのがきっかけだったが、入場料を払って舞台を観るのは初経験だった。

行ったのは新宿厚生年金会館だったか。。

 

二階席で観たのだが、幕間でさくら(横山智佐)さんが二階通路に出て来て感動しちゃった(笑)。

ちょうどすみれさんがサクラの舞台から抜けている時期だったように思う。

戦闘パートもアドベンチャーパートもすみれさんが好きだったので、ちょっと残念に思ったのが印象に残っている。

2012年の武道館ライブには行けて、これ以上ない程の「フルメンバー」を観られて嬉しかったなぁ。

あのライブは最高だった。

ということですみれさんも描かなくっちゃね!

1の戦闘服で。

 

絵画教室の小学生が『鬼滅の刃』を描きたいと模写に挑戦中だ。

そこでコロナ騒ぎで教室が休みとなってしまった訳だが。

 

では、私も相当久しぶり(30年ぶりくらい?)に絵の具でキャラ絵を描いてみるか。。

サクラ大戦3のグリシーヌ。

声を当てている島津冴子さんのエンディングの熱演に感動し、少しもらい泣きした。

舞台でも「完全にグリシーヌ」で、中坊でアニメトピアを聞いていた私はここでも感動するのでした(笑)。

 

色鉛筆とぺんてるエフ水彩 B5TMKポスター

 

やっぱ、この絵の具は淡彩の方が向いてるかもね。

サクラ大戦は最初、仕事をする為にクライアントからサターンを借りてプレイした。

キャラのポーズも自分で考えたので、作品を知らなくてはまず作れないから。

藤島さんのキャラは既に『ああっ女神様』『逮捕しちゃうぞ』『テイルズオブファンタジア』の原型を作っていたので、割に慣れている方だと思う。

 

仕事の為にプレイしたゲームだけど、ハマってしまいすぐ自分でサターンとソフトも買ってしまった(笑)。

一番最初の普通にプレイしたEDは紅蘭だった。

仕事内容はツクダホビーというメーカーのドールヘッド原型、塗装見本、とディフォルメフィギュアのデザイン、原型、塗装見本。

 

 

ぺんてるエフ水彩12色セットを買ってみて気づいたのは、昔と色の種類が変わっていることだ。

昔はももいろとペールオレンジ、そらいろはなかった。

ペールオレンジは昔で云う「はだいろ」のことだ。

この3色の代わりに朱色、黄土色、紺色があったと記憶する。

ももいろもペールオレンジもそらいろも白と他の絵の具を混ぜればできるので、私には不必要に感じた。

 

現代の小学生が「一番使う色」を入れたのだと想像するが、結果的に12色を混ぜて出来る色数が減ってしまっている。

12色あればなに色でも作れる、と言っていたが現代の小学生用絵の具では無理だった。

子供の美術教育はこれでいいのだろうか。。と思いながら、昔通りに作れない色にイライラしながら何色も混ぜて色を作った。

 

サインペンに淡彩。

サインペンは耐水性だと聞いたのでパイロットのDRAWING OENを使ってみた。

エフ水彩は不透明なのでスミ線が消えてしまうね。

制服は母校青森南高校と(女子高時代の)青森西の夏服を思い出して混ぜた創作(笑)。

絵の具にはまだ慣れなく、久しぶりに絵を描いているので中途半端な絵になってしまった。。。。残念

ぺんてるエフ水彩は不透明塗りが不得手に思えたので淡彩で。

こっちの方が良いかもしれない。

B5 TMKポスター

 

TMKポスターという紙を初めて使った。

新宿西口の世界堂紙売り場の店員さんにBBケントの代替品はないかと聞いたところ、一応公式ではこちらになっておりますと言われたのがTMKポスターだった。

でも、やっぱり紙質は違いますね、と言葉を添えて。

BBケントの微妙に水を吸う感じが好きだったのだが、ないものは仕方がないので試しに買ってみた。

(BBケントは英国産の紙だが生産停止になってしまった。世の流れがデジタル絵画主流になったせいだろうか?)

 

結果は、結構良いかも!!

やはり商品知識のある店員さんは有難い。

ありがとう、世界堂西口店紙売り場の店員さん!

 

 

昨年から分倍河原の「みんなのアトリエ」という絵画造形教室で講師をやっています。

高校受験用デッサン(先月合格しました!)、イラスト、マンガ絵、水彩人物画、油絵を小学生から大人まで教えています。

今月はコロナで休みなので、教室作例用にと久しぶりに絵の具で描いていたりします。

 

現在の小学生用ぺんてるエフ水彩はどんなものか、試しで描いてみました。

フィリッピンの日本陸軍中尉です。

エフ水彩は不透明絵の具ですが、不透明の技法で描くには(私は)徹しきれない感じでちょっと苦手のようです。

淡彩の方が向いているかな?

 

私の場合、慣れたポスターカラーの方が上手く描けます。

数年前に専門学校作例用に描いた風景画です。

 

昨年、小松崎茂さんの模型箱絵原画展を見て、久しぶりに「絵の具ボルテージ」が上がっていました(笑)。

病気の方は電車で立っていられるくらいに快復しました。

が、歩行速度は女性よりちょっと遅いくらいの速力。

ドン亀から掃海艇くらいに上がったかな?w

そんな訳で、とりあえず針路宜候(ヨウソロ)!!

 

思いがけず退院する事になった私だが、退院直前に看護師さんと話したことを思い出していた。

突然の退院「勧告」を愚痴り気味に看護師さんにこぼした。

言ってる事はよくわかるけど、對馬さんが90歳のお爺ちゃんだったら先生も退院って言わないと思うよ。

病院に居て体力を落とすより、荒療治で退院させた方が快復も早いと判断したんじゃない?

私も入院した事あるから、一週間でも入院してるだけで体力ものすごく落ちるの判るもん。

というようなことを言われた。

確かにその方が回復は早いのかも知れないな・・と多少思い直して退院した。

 

1月一杯は自宅療養して来月から専門学校の講師を復帰しようと思った。

退院して二日後、透析しに警察病院に行かなくてはいけない。

地下鉄乗り換えで結構歩く距離があるので、多少不安に思っていた。

実際に外を歩いて気づいたのだが、私の歩くスピードは誰よりも遅くお年寄りより更に遅い。

道の端を歩いていないと通行の邪魔になる。

入院する前は私もあの速度で歩いていたのだろうか?と思う程、皆歩くのが速い。

行きは混んでいない時間帯なので電車で座れた上、エスカレーターを使うので中野駅までは問題なく着いた。

駅から病院まで近道して10分だとリハビリで聞いていた。

 

改札を通り一生懸命歩く。

周りの人は三倍以上のスピードで追い抜いてゆく。

これでは巡洋艦や駆逐艦にまぎれた前世紀の遺物。

30ノットの快速船を羨望する最高速5ノットのボロ輸送船、それが私だ。

バシー海峡で一発ボカ沈のオンボロ舟。

「ああ・・これからは体調が良くなっても歩くのが遅い人を温かい目で見るようにしよう」と強く思った。

息が切れるくらい一生懸命歩くが、なかなか病院に着かない。

予想の倍、20分以上かかって病院に着いた。

「結構遠いな・・・・ここに一日おきに通うのか・・・」

透析室に入る直前、私を担当してくれた療法士さんと廊下で偶然出会った。

大学の同級生に似ている方の療法士さん。

「退院して、今日初めて外来で透析に来ました」と報告したが、ここまで来るのに結構疲れてしまい、片立膝しながらの挨拶となってしまった。

「大丈夫ですか・・・」と気遣われてしまったが、取りあえずはここまで歩いてきた。

 

透析を終えて外に出ると真っ暗だった。

時刻は17時過ぎ。

今度は駅に向かって帰路を急ぐ人に混じって歩く。

中野駅は帰宅ラッシュでごった返している。

帰りの時間帯が頭になかったが、これでは間違いなく電車で座れない。

おまけに下りはエスカレーターがない場所も多く、行きより疲れてきた。

健脚でない人に東京の電車乗り換えはこんなに辛いのかと思い知った。

ホームで待っている間もしゃがんでいたが、電車内でも気分が悪くなって立っていられなくなってきたのでしゃがみ込んでしまった。

電車はほぼ満員電車。

「怪しい酔っ払いか何か知らないが、しゃがみ込むマナーの悪いオヤジ(に見えるだろう)」には誰も席は譲ってくれない。

(今は判るのだが、これは血圧が通常より低くなっていて具合が悪くなっている状態。透析後によく起きる現象)

駅に着いて降りたが、長く歩けないのでホームのベンチに座って休む。

何と地上は遠いのかと気が遠くなった。

健常な時は40分で行けた行程に1時間半以上掛かってしまった。

しかも、まだ家には着いていない。

リハビリも兼ねているとは言え、このまま電車で透析に通えるのだろうかと初回で不安になった。

透析患者が透析を中止し、死亡したニュースを見た。

透析の必要性と安楽死に関する事件だと思うが、経緯を把握していないので言及は避ける。

ただ、透析をやらないと個人差はあるだろうが、二週間くらいで死んでしまうんだなぁとは思った。

 

私の場合、尿毒症の症状を解消する為に始められた人工透析だが、最初は時間が経てば直るかも知れないと仄かに期待していた。

腎臓の数値が改善されて、透析の必要がなくなる事はないかと。

その可能性を医師に尋ねたところ、言下に否定された訳だが。

 

透析の時間は3時間。

準備や止血を含むと4時間弱かかる。

まだ尿が出ていて腎機能が少し残っているから、濾過の時間も短くすむらしい。

他の患者さんは透析時間が4時間の方が多いようだ。

私より1時間長い。

聞くと最初は尿が出ていたのに徐々に出なくなり、今は全く出ていないと言う患者さんも居た。

私は一日500cc以上は出ているが、いずれ出なくなってしまうのだろうか・・・・

 

3時間も4時間もじっとしているのは退屈になる。

透析患者のベッドにはテレビがついていて、それをイヤホンをつけて見る事も可能だ。

他にラップトップPCをいじっている人も居るし、それで映画を観たり、読書や音楽などそれぞれに時間を過ごしている。

私は今のところ、文庫本を読むかipodで音楽を聴いて寝ている。

左手に針を二本刺していてあまり自由が利かないので、片手でページをめくれる文庫程度が都合良い感じだ。

 

人工透析で辛いのは、この二本の針刺しだ。

私は注射が大の苦手という訳ではないが、結構痛いと思う。

この痛みを軽減するのに麻酔パッチを貼る。

透析前二箇所に貼って部分麻酔をかけるシールだ。

これは痛みが半分以下になり効き目があった。

私は1時間前より、3時間くらい前に貼った方が効き目が大きいように感じた。

透析室の技師さんや看護師さんは針刺しに慣れているので皆上手いのだが、たまに猿も木から落ちることもある。

失敗するとちょっと痛いので冷湿布してもらう。

昔入院した時に、点滴針を何度も外され両腕が内出血大会になった事があった。

透析室でこういう事はあまりないように思うが、出来れば一発で決めて欲しいというのが正直なところだろう。

友人に明後日退院になったから服を持って来て欲しいと言ったら、電話の向こうで狼狽が広がった。

私が驚いているくらいだから戸惑って当然だろう。

友人は他にも都や区の障害者認定の手続きもしてくれていたので、その都合上もあったらしい。

障害者証があるのとないのとでは、入院費が随分変わってくるから当然だ。

何とか明日の夕方までに外出用の服一式を持って来てもらう事にした。

 

しかし、リハビリで外出する時に着る上着がない。

正に着たきり雀なのである。

非常勤で行っている学校の校長先生が、お見舞いで差し入れてくれたスウェット上下があったのを思い出し、これを患者着の上に着る事にした。

家に帰るには、まず病院から駅まで歩いて電車に乗り、東中野で電車を乗り換えなければならない。

乗り換えの経路は階段も多く、結構距離があった。

歩けるのか?

明日、最後のリハビリで試すしかないか・・・

 

翌日午後、最後のリハビリだ。

初めて広々としたロビーに降り、出入り口から出て病院の外観を見た。

ああ、こんな形の建物だったのか、よく外の景色を眺めた7階のラウンジはあそこかと感慨深い。

外は1月らしく寒かったが、太陽が出ていて風もなく天気は穏やかだった。

周りにはこんなビルがあったんだなと思いながら、病院の近くを10分以上歩いた

段差も問題なく超えられた。

駅まで歩けるだろうし、明日退院しても問題なしという評価だった。

その後、友人が服を持って来てくれた。

心配してくれて明日は付き添おうか?と言ってくれたが、独りで何とかすると固辞した。

各種手続きをしてくれた友人を交え、今後手続き等についてケースワーカーさんとも話す。

あとは入院生活道具をまとめるだけ。

気がついたら病院だったが、救急搬送されたのが1月2日で今日が19日の20日弱。

長かったのか短かったのかよく判らないが、終わりは慌しいものだった。

 

退院日、朝食後の午前9時から12時過ぎまで透析の時間。

入院での透析は今日で最後になり、これからは通いで来ないといけない。

今まで透析は火、木、土曜の午前だったが、午前は入院患者用の時間という事で午後に変更されるという。

朝の混んでいる時間に電車に乗らなくて良かった、と安心した。

昼食を食べ、荷物をまとめる。

大きい紙袋3つになってしまい、意外に荷物が多く重い。

こうなるんだったら大型のリュックか肩掛けできる軍用のボストンバッグを持って来てもらうんだった・・・

そういう物は家にいくらでもあるのに(友人は普通の人なので軍用とか判らない)。

着替えて、荷物を持ちナースステーションに挨拶した。

仕事中か今日は出勤ではないのか、馴染みの看護師さん何人かが居なくて挨拶できなかったのが残念だった。

こうなると「今日で本当に終わるんだな」と何か寂寥感を感じてしまう。

 

救急隊員の皆さん、東京警察病院の何人もの看護師さんや医師の皆さん、技師や療法士やケースワーカー、栄養士等の諸氏には本当に御世話になりました。

 

エレベーターでロビーに降りた時点で既に疲れを感じた。

ヘリコプターで例えるとペイロードにエンジン出力が遥かに負けている感じだ。

透析後は本当に疲れやすい。

事務で入院費を清算したりして時間が過ぎる。

「イヤな予感がする・・・」

この荷物を持って電車で帰るのは無理と判断し、タクシー乗り場に向かってタクシーで帰った。

冬曇りのどんよりとした午後だった。

この判断は正解だったと後に思い知らされる事になる。