沈黙しない私であることを | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

森喜朗氏の例の発言に対して、男性の私からも抗議の意志を表明させていただきます。

「沈黙は賛同と同じ」

とされるなら、私は森に「No」を表明したいです。

私の過去の病歴の記事を読んだ方なら理解出来るかと思いますが、私自身が「性差」に苦しんできました。幼い時の心の傷が、30過ぎてからの心の病を発症することになりました。

男性も「男らしさ」に苦しんでいます。「強くあるべき」を古い男性からも古い女性からも強要される社会です。

そして古い男女が抱く「強い男性」が「粗暴さという虚構」なんだと考えてもいないのです。

子供に強さを教えたいなら、「くじけない強さ」とか「誰かの為に身を投げ打てる献身性」を伝えることの方が大切だと伝えたい。

「西洋の文化は競争に勝つことを目的としてますが、私達は自我を捨てることを目的としています。」

とは、「セブンイヤーズインチベット」でダライ・ラマ少年が述べた言葉です。

まぁ、日本社会の病巣は「官僚社会」だということが表面化しただけでも良かったと思いましょう。

理解のある人なら、森よりも二階の発言の方が問題だと知っているはずです。

そう、結局は「政府のためのオリンピック。大企業のためのオリンピック。組織委員会のための組織委員会。関係者にだけ謝る謝罪」ということです。

それは政治の世界だけではありません。
「上司の顔色しか見ていない私の先輩。従業員と顧客の為ではなく、会社のための会社。」

ということです。

悲しいかな日本の大部分は村社会です。大都会東京ですら、古くさい風習に固執したものが権力を握っています。

そして男女を問わず若者達の「良き改革」の妨げは、利権へのしがみつきや、無関心ばかりではありません。「このままでは悪いとわかっていても同じことを繰り返して変化を嫌うこと」です。

絶え間無い変化を繰り返すという「挑戦」によってこそ、はじめて「現状維持」が出来ることを誰もが本当は知っているはずです。水面下の闘いに勝利してやっと「普通」を手にするといこと。

疑って、疑って、疑いきれないものだけが真実として残るということを知っているはずです。

権力の椅子にしがみつく無知で無恥な年寄りも問題だが、考えない弱者、誰かの為に自分が痛みを負う気持ちになれない弱者、前例がないことをやろうとしない者、当事者のクセに傍観者の立場で論評に終始するものがどれだけ害悪ということか!