冒険の果てに~ありのままを望まない勇者であれ | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

えー、小説のようなタイトルですが、小説ではなく哲学記事です。

「ありのままで~」の曲や「No.1にならなくていい~」の曲はどちらも素晴らしい音楽と歌詞だと思いますが、この詞を

「努力しない言い訳」

に使われるのは我慢なりません。

また、行き過ぎた官僚主義や、傍観者的批判体質が突出し過ぎると、「結果論」で語る風潮も好きではありません。
見通しの確かな物にだけ人が投資する世の中も如何なものでしょうか?
その「見通し」も過去の先例によるものであり、先駆者の失敗から学んでるだけというなら
「財産の食い潰し」では?と思う私です。
そうな考えを抱きながらキルケゴールの著作を読み進めると、以下のような文章が
****

もしも誰かが生きる為の測り知れない刻苦精進のゆえに戦慄してたじろぐとすれば、更に戦慄すべきは、そんな問題はどこ吹く風とばかりに乗り越えて前進し、そしておまけにもう一つ前進しながら思弁と世界歴史の中に首を突っ込む人のことである。
こうした生き方をこそ小生(キルケゴール自身のこと)は更に戦慄すべきものと思わざるをえないのだ。
だが小生の言いたいのは、古きを乗り越えて前進するという全てのものは、それが現にあるところの自己自身であるだけにとどまらず、同時にそれ以上のあるものになっている点で、まさしくその正体を現してくるということである。
しかり、それは同時にそれ以上のあるものに、すなわち戦慄すべき『間抜け』に化しているのだ。
(キルケゴール全集9巻200ページ原文まま)
****
はい、少し長くなりましたね、申し訳ございません。

「自己自身であれ」はキルケゴールが生涯を賭けて訴えた言葉ですが、
「前進する者はそれ以上である」
って言ってくれてるのは何だか嬉しいです。
未来はわからない。
勝つか負けるか、成功も失敗もわからない。
だからこそ挑戦する気持ちを抱くのは侮蔑の言葉ではなく「間抜け」という賞賛なんですよね。

小学生の時に私は教師から
「ヒトは動物で、『人間』という字は『ヒトとヒトのあいだ』と書くから人間です。
社会全体で生きる意識が無いヒトは人間じゃないから『間』抜けなんです。」

と教えられました。

しかし、不確定な未来に飛び込む冒険者やそこから生還した勇者が一々他人の顔色を窺っただろうか?
偉大なる発見をした学者が、自分を追い込むことなく、和気あいあいとした凡庸な環境から革新を得たであろうか?続