久しぶりに図書館でキルケゴールを借りてきました。
21巻ある全集も9巻で止まってました(笑)。
また今日から新たな勉強の始まりです。
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「教会で美的領域へと逸脱した宗教的公演を聞かされるとき、たとえ牧師先生なほうはどんなに気違いじみたお喋りに陶然自酔しておいでであろうとも、こちらとしてはいうまでもなくそこから徳を建てる真理を汲みとる義務を厳として負わされている。」
(キルケゴール全集9巻 182ページ)
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はい、道徳的に大切な話を熱弁していると、「道徳的に正しいか?」ではなく、単純に「その行為は美しい」って話になってしまいがちです。
そしてご立派な牧師先生は、徳の大切さを熱弁するよりも、良い弁論をすることがメインになってしまいがちです。
そして、伝えたいことが美辞麗句に埋もれようとも、その中から「徳」を探し出すのは聞き手の責任に押し付けるというわけでありますな(笑)。
これこそキルケゴールのイロニー(皮肉的)な既存宗教に対する批判であり、日本人(特に若者)に見られる既存宗教の嫌悪とカルト宗教を混同した嫌悪に共通するものがあるでしょう。
ただ、着目すべきはキルケゴールは19世紀に生きた人間であり、200年近く前に既に私達と同じ様な批判をしていたということです。
恥ずべきことは私達日本人(特に若者)は、神を語る者に対し座頭市の様な目眩剣法を振るうことでしか自己を守れないということであると、私はキルケゴールの名の下に訴えたい。
ヒステリックな恋愛映画が持て囃され、少しばかり含蓄を込めた単語を羅列した歌詞が賞賛されるのも、私に言わせれば信仰心の欠如による熱病である。
大宇宙に対して自己の存在を問いかけた時、そこには応対するのは貴方と「絶対者」しかいない。仮にそれが天照だろうが、釈迦だろうが、「貴方との1vs1」の関係なのです。
それは他者の生死が直接には貴方の生命と連動していないことが何よりの証拠です。
キルケゴールは更に言いました。
「人間はまったく何事をもなしえぬ存在である。
このことを常に自らの心に刻んでおかねばならぬ。
宗教的立場に立つ人間はこの状態にある。」
と。(同書179ページ)
これは「何にも出来ないから何もしなくていい」という意味ではありません。
「神に比べて人間は遠く及ばない不完全な存在であることを自覚せよ。」
との意味が込められているのです。