二種類 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「人間とは二種類の人間が居る。
○○な人間と、△△な人間だ。」

数々の偉人、有名人、著名人が上記の言葉に自身の人生をぶつけた言葉を残したことでしょう。

勿論、人間をたった二種類に分けられるはずありません。
しかし、自分自身の選択は常に「あれか、これか」でしかないことはキルケゴールから学んだことです。
そうです、上記の言葉は身の回りの人間を都合良く分類する為ではなく、

「自分ならどちらか?」

を問いかける時に最適だと言うことです。
そしてそれは選択するや否や、「今までの自分は」という注釈が付き、未来の自分とはかけ離れていくのです。

上記の格言によく使われるのは

「困った時にこそ助けてくれる人間か」

でしょうか?

これも、自分の家族や友人を「こいつは助けてくれない」
と、決めつけるのではなく、
「少なくとも私個人は身の回りの知人が困れば必ず駆け付ける人でありたい」
と衿を正す為にある言葉だと思います。
また「自分の夢を叶えるか、誰かを幸せにするか」

これは親鸞さんも近い言葉を残してたそうですが、結局は夢を叶える為のエゴや、誰かを守る為の強さも「全て自分」だということを受け入れろというメッセージだと思います。

で、私が上記の言葉として、今更ながら痛切に感じるのは

「人間とは二種類の人間が居る。

人を使って活きる人間と
人に使われて活きる人間だ。」

ということです。

私の哲学ブログや創作小説を読めば理解してくださると思いますが、これは単純な
「支配者」「指導者」ではありません。

階級の上や下は関係ありません。

偉大なる皇帝や将軍や大統領は必ずしも「部下を上手く使える天才」とは限りません。
「部下に上手く使われる天才」だってたくさん居ました。

「トップはどっしり構えて部下に任せて…。」

ってのは徳川家康や武田信玄の様なリーダー像のテンプレですね。
しかし、豊臣秀吉は天下人となってからも、足軽時代と変わらず、三成や家康やねね様から「上手く使われる関白」だったと思います。

サッカーで言えば偉大なる得点王も、偉大なるパスの出し手が居てこそ活躍したり、ゴールを決めてくれる者が居てこそ自分のアイデアが活きるミッドフィルダーも居ます。
野球ならば、タイトルを総ナメした剛球投手が捕手が変わった途端に成績ががた落ちしたり、逆に有能な投手が居ないと活躍出来ない捕手も居ますね。

適材適所と言うは簡単です