集団としての宗教の嫌悪と、個人の信仰心の賞賛 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

本日もキルケゴール全集8巻から
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人の心を審(つまびら)くことは、神にゆだねておくべきだ。
しかし生後14日目という幼い年齢で洗礼をうけ、名前の上だけでは、さらにキリスト者であり続けることが都合のよいこととみなされなければならず、キリスト教から脱出することが面倒と煩わしさをもたらすだけであり、
(中略)
かつては、キリスト者になるのには、確信にみちた力と強さが要求されたが、(いまや言い回しはあまり誉められたものでないにしても、)
キリスト者であることをやめるのに勇気と力が必要になるであろう!

これに反して、いまやそういう仕方でキリスト者であるというのは、無思想だと言われるのである。
それ故に、幼児洗礼は十分弁護されうるし、その為になんら新しい風習を導入する必要はないのである。
しかし、全てが変化しているように、牧師たちでも次のことを見抜かなくてはならないはずだ。

すなわち、かつてキリスト者がまだ少数であった時、彼らの課題は、キリスト教へと人々を獲得することであったが、だから今や課題は、出来るならば人々を驚かすことによって獲得することなのである。

(中略)

キリスト教がこの世に入ってきた時、人々はキリスト者ではなく、難関はまさにキリスト者になるという点にあった。
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はい、以前にも書きましたが、

「赤ちゃんの時に洗礼を受けたから、よくわからない内にキリスト教徒だったんだ。」

って、ことが今の世の中で溢れかえっている!と、19世紀の哲学者キルケゴールは警鐘を鳴らしています。

そして
「今さらキリスト教徒をやめるのは煩わしい。
だから僕はキリスト教徒なんだ。」

こういう状態を嘆いています。

そしてかつては信者になることを命がけだったからこそ、洗礼は誇らしげなものであったが、今や脱退成功者の方が遥かに勇気を賞賛される時代だ!と、言ってるように私は解釈します。
また当たり前の様に、生まれた子供が洗礼を受けるから、それ以上に信者を獲得するのは難しく、ターゲットは外国人や異教徒や筋金入りの無神論者となる。
そんな彼らを入会させる手法は
「驚かすこと」
なんですよね…。
なんだかなぁ…。
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こういう幼児洗礼より、
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こっちの方が遥かに祝福だと思う私です(笑)。