本日もキルケゴールと私の哲学にお付き合い宜しくお願いします。
文中に出てくる「実存」とは「現実存在」という意味ですが、「私自身」や「自分のリアル」って当てはめて読むとわかりやすいかもです。****
今日誰かが、ギリシアの哲学者のように生きようと思ったならば、すなわち彼が人生観と呼ぼうとしているものを実存を賭けて生きながら表現し、それを実存をかけながら深めて行こうと思ったならば、彼は気が変になったと見なされるに違いないことを私はよく知っている。
そう見なしたいと思うものは、思わておこう。
(キルケゴール全集8巻より)
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はい、古代ギリシャでは哲学者が哲学者らしく探求することは「日常」であったということです。
たった一つの格言を生み出す為に、「あれか、これか」と、何ヶ月も自分の生活全てを費やすことが許される社会だったのです。
しかし、キルケゴールが生きる19世紀に「それだけ」で生きられない困難さを説いています。
ブログに何度も書いてますが、
美しい小説や詩や絵を生み出す芸術家が、私生活では酒と賭事に溺れて…ってのは何とも勘弁してほしいものです(笑)。
もうね、19世紀から既に
「彼は気が変になったと思われるに違いない」
なんて書かれてるのを読めば、笑いが止まりませんよ!
哲学者が哲学者であり続けることが如何に大変かってことですね(笑)。
かくいう私も関西学院の哲学科を志した時がありましたが、母から「頭おかしなるからやめとき(笑)」と言われたものです。
勿論、その当時は理系の成績の方が良かったので、薬学部に進学するのは自然な流れでしたが。
まぁ、そう言いながら関西学院哲学科の話を知ったのも、母が毎朝聞いてたラジオのパーソナリティが卒業生だったからなのですが(笑)。
で、哲学で頭やられるってのは絶対にニーチェの誤解だと思います。
彼はキルケゴールより後の世代の人間ですが、ニーチェの発狂死というのは「梅毒」によるものです。
またニーチェは過酷な従軍体験もその影響と思われます。
決して哲学のし過ぎではありません!
梅毒は元々頭をやられる病なのです。
話があちこちに飛びましたが、自己自身に偽りなく生きるのはいつの時代も困難なものです。
思えばヘーゲルが哲学専任教授だったのは、彼は「哲学とは何か」に終始し、それでどうするかを何も示さず、ただ分類しただけ、ってのが私とキルケゴールの答えです