「結局は善も悪もないんだよ。」
と。
はい、本当にありがたいお言葉です。
世の中を相対的な比較で判断される方ほど、社会で成功される様に私は感じます。
有限な人間という存在である限り、「絶対」に触れることは不可能でしょう。
「諸行無常」は無情ではありません。「無常」です。「常では無い。」です。
自分と意見が違う人に対して論理的に説明出来ずに
「常識だから」
を繰り返す人は
「常識とは何か?」「貴方の常識は何か?」
を疑ってみるとよいでしょう。
デカルト的な方法的懐疑はネガティブ思考になりそうで好きではありませんが、ソクラテス的「無知の知」で、わかりきった態度を取らない様になるべく気をつけたいと思う私です。
しかし、それでも私は「絶対」を求める者でありたいと思います。
最も信仰している宗教は「神道」が一番で、八百万の神を自然崇拝しています。スピノザ的な神=自然だけでなく、ヤスパース的な神=包括者として私は「絶対」を求め続けたいと思います。
前置きで半分が過ぎましたが(笑)、
「最終的に善も悪もない。」
と言う素晴らしいお言葉も私には50%に思えます。
何故ならばセーレン・キルケゴール

の
「善か悪かで判断するのではなく、善悪を用いることかそうでないかを判断することが大切だ。」
との言葉の方が遥かに受け入れやすいと私は思うからです。
「絶対善」の探求が私の恒久的テーマになりそうですが、まずは今まで書いたことのおさらいです。
「生まれたばかりの赤ちゃんを『善なる存在』と言いますが、生まれたばかりの赤ちゃんを『正義』とは言わない」
です。
この言葉に「確かに」と思えないなら、このシリーズの私の記事はストレスが溜まるだけですのでオススメ出来ません。
また、それでも
「生まれた赤ちゃんに『善』すらない」
と断言出来る方は、私などの記事を読む必要すらございません(笑)。
(詳細は「学義論」カテゴリーで。)
ハイデッカーの存在論は大の苦手です。
「ある。」=is am are の言及には脳が焦げそうです。
しかし、日本語には最も端的に表現してる言葉があります。
「ありがとう。」=「有り難う」=「有難い」です。
これが「存在の肯定」即ち善です。