敬愛する心理学者の植木理恵先生は
「男性は『自分はこんなに凄いんだ』と大きく評価されたがる」
「女性は『私ってこんなに弱いことをわかってほしい』と小さく評価されたがる。」
と言っていました。
世の中には「媚び」を嫌う人はたくさん居ますが、私個人としては「媚びそのもの」よりも「それによって得た対価」の方を嫌うかもしれない。
確かに私は親愛なるブロ友さんから「小賢しい人間を嫌う」と指摘されたが、全くその通りだ。
己の博識をひけらかし、弁論術に酔いしれる馬謖の様な人間は大嫌いだ。
だが、かつての私ならそこで思考を停止させていた。
いや違う。私が本当に嫌っているのは馬謖の「知識への自惚れ」ではない。
馬謖の「過大評価」ではないだろうか?
仮に馬謖が取るに足らない下位武将なら腹も立つまい。
敬愛する諸葛孔明先生に気に入られたことが一番の原因なのではないか?
テレビでも「小賢しい芸人」が居るが、ガヤ芸人よりも司会をする者の方が嫌いだ。
やはりその過大評価が嫌いなのだろう。
しかし、問題はそれが生来の「謙虚さ」と混同されると事は厄介である。
世の中には本当に「足るを知る」人間が居て「過ぎ足るを望まぬ」人間も居るのだ。
「蟷螂の斧」を無意識にわかっていて、自分の力をひけらかすことを嫌う人間も居るのだ。
それは相手の為ではない。
自分がそうしたいからだ。
思うに「媚び」のカラクリは「過小評価」をコントロールする事である。
特に日本は「出る杭は打たれる」以上に「出そうな杭も打たれる」国である。
自分に力が無いように振る舞うのは、動物が擬態で命を繋ぐのと差が無いのかもしれない。
しかし、過度に自分の無知、無能、不遇をアピールするのは、他者から妬まれないというバリア効果に加え、自分だけが利益にあやかりたいという「弱者故の傲慢」があるのかもしれない。
男性社会が従属関係の縦社会というなら、「媚び」は必然と階層を下げるという「物理的リスク」を背負う。
対して「横並び重視」の女性社会では、「媚び」でリスクを背負っても、階層に変わりがないなら「いい人アピール」は「もらい得」になる。決して横並びは崩れない、という共産主義的な社会保険のように私には見えてしまう。
仮説だが、いわゆる「ぶりっ子」と社会主義の「どうせ平等は保証されてるから勤勉は損」はとても共通するように思える。
大奥では誰もが「女将軍」を目指さないのだ。