親しい方から質問を受けました。
「命は何であらわされるのですか?」
はい、医者でも学者でも、宗教家でも無い私が、自身の哲学のみを頼りに答えさせていただきます。
ヤスパースは「神」の問題にも避けて通らず、「不可知」論者を批判しました。
神を避けなかったヤスパースに習い、命を述べたいと思います。
現実問題として、仮に腕を切り落とされたとして、「腕側」に意志は宿りません(笑)。
残った身体側が「私」であり続けます。
(ここまで大丈夫ですか?)
古来、心臓に「心」の字をあて、英語でも「heart」は心臓と心の意味があります。
これはやはり、「鼓動」が気持ちと連動していることに、昔の人はとても不思議に感じたと思います。
緊張で意志と関係なく鼓動が早くなる心臓にこそ「心」があること考えたのはごく自然だと思います。
しかし、医学の進歩により、脈を早くするのは興奮を司る交感神経、脈を緩やかにするのはリラックスを司る副交感神経とわかりました。
「心」が脳にあることを証明した瞬間かもしれません。
しかし、大切なのは決して「意志、計算、記憶、判断、芸術」などの『大脳』でコントロールしていません!
脊髄反射や基礎代謝、傷口の修復を私達はコントロール出来ません。
もっと簡単に言えば自分の意思で心臓を止めれません。
私はこれが「心は脳にある」の否定になると思います。
つまり、私達は小脳、中脳、延髄、等による『意志』を自身で永遠に知ることなく一生を終えるのです。
(医師による投薬や外科手術で影響を受けますが、派生した事例を認識するだけで、オートマチックに動く肉体の神秘を『感じる』ことしか出来ません。
もしかすると「神」とか「宇宙」とか以前に、自身の肉体の神秘を知る方が遥かに道徳的で倫理的かもしれません。
つまり私達がどれだけ知識や技術を身につけ理性的に生きようと、私達は「大脳の意志の範囲」「網膜が映し出してる映像」を超越出来ないのです。
私が繰り返し言う
「魚は海を認識しない」
です。
意志あるからこそ、完全に意志が無い状態を体験出来ないのです。
私は「自分」を棚上げして「客観的」「傍観者的」意見を述べる人が苦手です。
だったら私情を私情と知りながら贔屓する人の方が好感が持てます。
で、結論としては
「命は心でしか表すことが出来ない。
対象物を『命』と認めたあなたの『心』さえも、『心』によって作られている」