これは著書「影武者徳川家康」で小説家隆慶一郎が述べていた言葉です。
多くの文豪、著名人が似た様な言葉を残してると思いますが、文章で読んだのはこれが最初です。
デンマークの哲学者キルケゴールは24歳の時に15歳のレギーネに一目惚れしました。
その様子は「あれか、これか」の中の「誘惑者の日記」で詳しく書かれています。
「誘惑者の日記」単体でも出版されてますので、興味ある方は是非とも読んで下さい。
そして私に解説して下さいませ(笑)。
で、今日の本題ですが、キルケゴールは
「一言も自身の一目惚れを哲学していない。」
です。
そう、実存主義の創始者キルケゴールでさえ、
「恋している自分」
を定義出来ないのです。
塵数多の本の中で
「恋は熱病」と喩えられましたが、それは「実際に熱病でない」証拠なのです。
太宰であろうが、シェークスピアであろうが
「今現在、恋している自分」
を書くことは不可能なのです。
過去の自分を振り返り、
「あの時、私は若かった」
と甘い詩を紡ぐことは
「その時の私」
の影法師でしかありません。
だからこそ、だからこそ、レギーネに恋したキルケゴールは 「恋し続けていた」からこそ自身の一目惚れを説明出来なかったと思います。
婚約し、婚約破棄し、その理由を込めて「誘惑者の日記」を執筆してる最中でさえ、レギーネに恋し続けていたのです。
「愛の普遍性を語るその言葉の多くは、恋の終わりの合理化である」
by SPA-k
だからこそ、だからこそ
「恋の始まりを理由付けすることは出来ない。
魚が海を認識しないように」
by SPA-k

「理由なくキスして何がいけないの?」
明日はキルケゴールの婚約破棄を掘り下げて見たいです。