ゲシュタルト崩壊 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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こんばんは。
最近では哲学、心理学に関係なく有名な言葉になった
「ゲシュタルト崩壊」
です。
1947年にファウストが提唱したものですが、それより前の1938年にサルトルが著書「嘔吐」の中で同様のことを記しています。

で、そのゲシュタルト崩壊とは何か?

例えば「あ」と言う文字を無意味に書き続けていると、いつの間にかミミズの様な文字になり、最早「あ」の意味を失う。
同様に「あ」をただひたすら見つめ続けると文字がバラバラに見えて「あ」の意味を失う。
この「全体としての輪郭を失う」
ことを「ゲシュタルト崩壊」
と言います。

近年ではメールや顔文字の発達で「文字」の意味をわざと無くし、「絵」として見ることに適用されてます。

例を挙げると

「 ぷ。」

をじっと見てると「ボーリングをする人」に見えてきますよね?
こういう遊びを「ゲシュタルト崩壊」と言ってしまってるようです。
これにどれだけ心理学的、哲学的な意味があるかわかりませんが、楽しいのは確かです。

サルトルは
「リンゴを見て、リンゴとして見えているのはそこにリンゴと言う『物体』にリンゴとしての『意味』を持たしている『自分』が存在するからだ」
と言っています。

そうです。わたくし達はあらゆる物に名前をつけ、それを見て、それを呼び、「意味を持たしている自分」が居るからこそ、見えているのです。

これがキルケゴールなら、
「自分がリンゴを求めた時に初めてリンゴが創られる」
って言いそうですけどね。

「ゲシュタルト崩壊」は物よりも寧ろ、「人」の方が起こりやすいのでは?
と考えるのは私の個人的見解です。

私達は常に他者に意味を持たせて接しているが、不必要に他者を求めると全体としての認識が崩壊するのでは?
と考えてしまいます。

「他人とは自分から見た関係性に過ぎない」
と言ってしまえば簡単ですが、人と人は切れない「愛」の関係は永遠に続くと信じたいわたくしです。