「自由の都市」
でした。
スペインからの独立戦争に勝利し、他国のような専制君主はいませんでした。
アムステルダムを中心に七つの州からなる自由都市が、運河による貿易を中心に町に富と人と学問をもたらしました。
取り分けアムステルダムは出版業界の最先端を行き、若き哲学はこの町から産まれてくるのでした。

国政のトップであるウィット氏も、慎ましい生活を送るただの共和制の議長に過ぎませんでした。
しかし、自由すぎることを敵視する人は常にいます。
聖職者や神学者はウィット氏を好ましく思わず、独立戦争の英雄、オランイェ総督を担ぎ上げます。
一般民衆も多くは総督派、教会派でした。
それに対してウィット氏支持派は都市商人でした。都市商人はどこまでも自由な商売を求めたからです。
そしてもう一つの支持層がデカルト主義者達でした。
スピノザはこの様な「不安定な自由の町」
で執筆活動をするのでした。
スピノザにとって執筆活動の理由は三つありました。
1 聖職者、神学者による偏見に対する反発。
2 民衆から無神論者 と呼ばれる事に対して
3 言論の自由、哲学の自由を求めて
でした。
「神学政治論」において
「あらゆる宗派、民族の共存」
「自由を為し遂げた町、アムステルダム」
と訴えたのですが、市民からは
「そんなのは金持ちの金儲けの為の自由だ。ゆるい事言ってるから我が国は他国に侵入されたんだ」
と弾劾され、
聖職者や、そしてデカルト主義者達からも
「無神論者」呼ばわりされました。
そして事件は起きました。
「神学政治論」出版の二年後、共和派トップのウィット氏は路上で市民に囲まれ、惨殺されました。
スピノザはこの件を「生涯最大の動揺」と表現しています。
普段、物静かなスピノザは激昂して
「この野蛮人ども」
と記した弾劾文を街頭に貼り出そうとしたらしい。
下宿の主人が押し留めなかったらスピノザの命も危うかったでしょう。
去年の私のblogには「民主主義の為に政治のトップが吊し上げられても、市民は失敗しながら学ぶしかない」
と冷徹な目で執筆したと書きました。
が、上記の行動を見るとまるで逆でした。
同じスピノザでも本が違うとまるで記述が違うのです。
明日は「無神論者」を書きます。