結論から言ってスピノザは当時画期的な理神論を唱えましたが、聖職者、民衆、デカルト主義者からも
「無神論者だ」
との烙印を押されて、それを覆せないまま、理解されないまま亡くなりました。
そもそも「無神論」には二種類あります。
「神そのものがいない」
と言う考えと
「『唯一神』を信じない」
と言う考えです。
宗教学そのものが欧米とキリスト教中心なものの考えの為に、仏教、儒教、神道でさえ、「無神論」とされる場合があるのです!
大自然そのものを「神」と見たスピノザは八百万の神を信仰する神道に近かったと考えれば凄く嬉しいです。
とにかく圧力かけて「自分達の」キリスト教を信仰しない者は「無神論者」だった17世紀です。
急進的なスピノザの考えを保守的な人たちは寛容に受け入れてくれませんでした。
では「理神論」とは?
端的に言うと
「神は存在するが、奇跡を起こす神はいない」
と言う立場です。
スピノザが強調したのは正にこの部分で、
「神が自然法則を無視して、意思を持って人間の生活や歴史に『介入』することは絶対にない。全ては必然だ」
と訴えたのです。
しかし、このスピノザの新し過ぎる考えは受け入れられず、彼が教会に行かないだけで、無神論者と言う汚名を晴らせませんでした。
カントが出てくるまで、44歳で肺結核で亡くなったスピノザは歴史に抹殺されたままでした。
ではスピノザは聖書の神をどう信仰してたか?自身で七箇条を挙げてます。()がスピノザの見解です。
1 神は正義と愛の手本
(そうでないと命令を聞けない)
2 神は唯一
(でないと絶対な信仰にならない)
3 神は普遍的に存在する
(居たり居なかったりじゃ、神の正義が通らない)
4 神は最高の権利、権力を持つ
(だから皆服従する)
5 正義と愛をなすことが神への服従
(それが神の命令だからだ)
6 神に服従すれば救われ、そうでなければ見捨てられる
(でないと服従する意味がないから)
7 神は悔い改めるものを許す
(でないと服従する側の身が持たない)
以上がスピノザが論理的に証明した聖書内の神です。
「汝、隣人を愛せ」
の教義を守らせる為に聖書に書かれた神は「論理的に矛盾が無いからいるんじゃない?」
がキリスト教の神に対する見解でした。

こんな風に祈らなくても信仰は心にある。