「正しく行う人は、宗教に教えられようと、理性(哲学、知恵)に教えられようと、隣人愛にかなっているだけで等しく敬虔である。
思想的にまったく無縁なものたちが、よき行いに関してなぜか無縁なまでに一致する。
それが恩寵というものであろう。
それ以上に哲学は、そして神学は、敬虔について何を言うべきだろうか?」
これがスピノザの主張です。
つまり善なる行いをしようとすれば、思想、価値観の違った人達と無関係に、
「互いに干渉せずに共通のゴールを結果的に目指している。それを見守るのが神の加護だ」
と解釈しました。
だからこそ哲学と神学は反発しない、無関係だからだ。
とスピノザは言います。
「理性は真理と叡智を。
神学は敬虔と服従の領域領域を。」
がスピノザの見解です。
「大自然イコール神」
を唱えたスピノザは「縁」そのものを神と見て、その自然法則をへりくだった態度で信仰することに、敬虔さがある
と主張したかったのだと思います。
「大自然イコール神」
を主張した為に、ユダヤ教を破門されたスピノザには
「形骸化された宗教」
よりも
「人と人との間の善なる行い」
に神を見いだしたのかもしれません。
屋根裏の下宿部屋でレンズ磨きをして生計を立ててたスピノザは生活に密着した「縁」を重視してたと思います。
大切なことをもう一度言います。
「善なる行いをすれば、無関係で考えの違う人と、いつの間にか共通のゴールを目指している。
そこに神の恩寵はある」