聖書内の「ヨシュア記」を例に出すと
「預言者ヨシュアがアモリの部族に攻撃をしかける際、日よ止まれ、月よ止まれと神に願う。
すると実際に太陽が天空にとどまり一日中日没しなかった」
とある。
神学者は
「これは超自然な奇跡である」
で片付ける。
哲学者(デカルト主義者)は
「太陽が止まるはずがない。これには夏至とか日食とかが自分達の味方をしたことの隠喩だ」
と合理的に解釈するだろう。
しかし、スピノザはそのどちらでもありませんでした。
スピノザは
「聖書は真理を伝えるのでは無く、伝えたいことを伝えただけだ。」
と解釈しています。
もし、神学者の言う超自然な奇跡なら信仰心ある人しか体現できない。
しかし、聖書は信仰心の無い人の為にある。とスピノザは言ってます。
また、太陽が止まったと言う言葉に哲学的に意味を見出すなら、聖書を読んで聞かす人間に哲学的素養が必要だ。しかし、当時の民衆にその様なものはない。
聖書は大学の講義室だけにあるのではない。とスピノザは言ってます。
どうやらスピノザは聖書を神と同じで
「感じるもの」
として扱ったようです。
「太陽が止まった」
と聞いて大切なのは
「どう信仰すれば太陽を止めれるか?」
とか
「その言葉の正体は何か?」
ではなく、
「天は味方した。」
と言う事実があれば良い。と言うスタイルなのです。
スピノザもスピノザの著作も、生前は日の目を浴びませんでした。
ドイツ観念論が定着した時代になり、ようやく再認識されたのです。
この本には
「スピノザは神学者でも哲学者でもなく例えるなら考古学者だ」
と語ってます。
続きはまた明日。
追記 モーゼが海を割っても
「神の奇跡」と盲信したり、満潮と干潮を熟知してたからと合理的に考えるよりも、単純に
「ああそうなんだ。そんなお話もありかもね。」
が人生楽しめるかも?
ってスピノザが教えてくれた気がします。