カントは自身の著者にて問いかけています。
「何を知ることができるか?」
「何をするべきか?」
「何を欲するのか?」
この問いかけに対してカントは
「純粋理性批判」
「実践理性批判」
「判断力批判」
の三冊の批判書で述べています。
「批判」とはこの場合、「否定」と言う意味では無く「批評」や「吟味する」
と言う意味で使われています。
特に最初の「純粋理性批判」は難解な書物として、発行された18世紀末から有名だったそうです。
キルケゴールはこのカントの純粋理性批判を
「退屈極まりない本」
と切り捨てていました(笑)。
彼の認識論は当時から難解だったんですね。
初版発行から6年後に純粋理性批判の改訂版が出版されましたのも納得です。
ソフィーの世界では、カントの事を
「冷たい理性」
と評していました。
デカルトに始まった近代の神学論、「神の存在証明」の論議について、カントは一応の決着の見解を示しました。
それが理性理念です。
「直接に認識することは不可能だが、人間が生きていく上で『あった方が良い』
」
と言う立場で神様を定義されました。
理性理念はほかにも、
「世界」「自由」「不死の魂」
が当てはまります。
カントはこれらを
「直接に認識するのは不可能だが、人間が道徳的に生きる為に『あったほうがよい』」
と述べてます。
またカントは自由に対して実践理性批判のなかでこう述べてます。
「道徳法則は自由の認識根拠である」と。
全てが自然の流れで説明がつくのなら、「~するべき」などの見解は生まれない。してもしなくても規制は無い。
オートマチックに行動に移らない時点で人間は自由があると言うことです。
これはスピノザの
「意志=大自然の法則」への否定になります。
わたくしは
「自由意志とは葛藤」
by SPA-k と解釈しました。
真の自由とは物質的な欲望や快楽を追求せず、幸福や快を目的としない道徳的な活動にこそある。
自由とは「原因と結果」に縛られないこと
これがカントの唱える自由であり、やがてシェリングやヘーゲルに継承された
「ドイツ観念論」
の基礎です。
カントは一応ここまでです。
明日からはデカルトから始まる近代の神学論の系譜を書いて行きます。
難解なカントにお付き合い下さりありがとうございました。