カント2~コペルニクス的転回 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「認識論」

カントによると、何か対象を認識するメカニズムは、

1 目や耳等からの感覚情報が入ってくる。

2 時間と空間と言うフィルターを経由する。

3 それぞれの感覚器官でのバラバラの情報が統一されて、そこに「原因」と「結果」が足される。
この原因と結果を「因果律」と呼び、この3全体の作業を悟性と呼びます。

例を挙げると、人がアゲハ蝶を見たとします。

1で
「何かが目の前を横切った」と直観形式に知覚します。

2で
移動してるアゲハ蝶は時間と空間の加工を受けます。
明るい所で飛べば明るく、暗い所では逆に見えます。
また速く飛ぶほど歪みが発生します。
これが時間と空間のフィルターです。

3で
「あれはなんだろう?」
と、「原因と結果」等をほぼ無意識に頭を回転させて、情報を整理統合します。
この作業が悟性形式です。

そして
「今、目の前を横切ったのはアゲハ蝶である」
と言う概念を抱くことになるのです。


カントによると私達は加工された情報しか知覚出来ない。
加工前の「物体そのもの」=「物自体」は永遠に認識出来ないと言っています。

確かに愛する人の昔の姿を「見る」ことは不可能です。
写真は紙そのもので本人と認識するのは私達がそう判断するからです。

また天文学において、何光年も離れた星の光は、何年も前に光った過去の姿を地球から見ているってありましたよね?
それと同じで決して「今の」星の輝きを見れないのと同じです。

「決して物体の本質を知えない。」
これをカントは理性理念と呼びました。
理性理念、即ち、
「論理上、あるであろう本質的な姿」
です。
カントは神様に対しても理性理念が該当すると言う立場をとってます。
喩えるなら数学の「無限大」ですね。
見れない、認識できないけど、数学として必要だから「無限大はある」
になります。

「コペルニクス的転回」

カントは「自分の外の物質を分析する為に哲学を使うのでは無く、自分の内を知る為に哲学はある」
と言う従来の概念を180度転回する態度をとりました。
これを
「コペルニクス的転回」
と呼びます。

また、物体が加工されて私達に飛び込んでくると言う考えも、コペルニクス的転回と言えるでしょう。

今回は単語の羅列になって申し訳ないです。
ちゃんと最後にまとめをやります。
明日はカントの道徳観を書きます。