前回の続きで、
ジョルダーノ・ブルーノは
「神は自然界にいる。宇宙は無限だ」
と中世に述べた彼は教会から火あぶりの刑になりました。
中世は理性(知恵)と教義のせめぎ合いだったそうです。
なんと哀しいことでしょう。
だがしかし、疑いなく、ただ善を追求すれば停滞するだけ?
神に降伏することだけが人の幸福と言ってるようになりませんでした。
「善は謙虚さと心がけ。悪は才能。」
はキルケゴールの言葉ですが、疑いと否定から知恵が発達するのでしょうか?
しかし、だからこそ紛争や競争は無くなりません。
今、私は物質社会と競争社会に疲れてます。
どんなに賢者の言葉を並べても、強く店を発展させるのは悪意と利己主義以外に無いと思えて仕方ないのです。
はっきり言って苦しい毎日です。
スタッフも、お客様も上司も、勝ち上がる為の踏み台に見える自分を責める毎日。
デカルトの「我思う、故に我在り。」
は「全てを疑うことからはじまり、唯一疑えないことは、私が疑っていると言うことだ」
って意味だそうです。
神の完全を肯定する故に人の行いを正しくないとするデカルトは敬虔と言えるでしょう。
しかし、「わたし」もしくは、私達は生まれながらに「善」と信じたい。
「善を信ずれば停滞。才能を発揮すれば悪」
これでは哀しい限りです。
自分が自分である為に悪意だけでは無い、何かもう一つの欠片が欲しくて仕方ないわたくしの叫び声でした。
あ~コメントほしいです。