善悪とは2 主とキリスト | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「神」を安易に使用する最近の表現にはうんざりします。

確かに神業的な職人は存在するでしょう。
しかし、「神」ではありません。
神は「意識されることによってのみ」絶対者として存在するのです。

否、「絶対者」は存在するはずないので、「存在しない者としてのみ、存在し続けているのです。」
自身は神を目指して、自身は他者を神格化します。

しかし、キルケゴールは言います。

「キリスト教を信じても、キリストを目指したがらない。
それはキリストになるには謙虚さが必要だからだ。」

つまり神の絶対者としての力に惹かれるが、キリストの様に「殉じる謙虚さ」を持ち合わせる事を、目標としないと指摘してるのです。

謙虚さを強制してるのではありません。

ただ、貴方達の思い描く神は「有限者として最高の者」として描いてませんか?
それなら始皇帝やチンギスハンやブッシュと同じですからね。

どうせなら、無限大の神様を、絶対者としての神様を描きましょう。


最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦-ファイル0217.jpg

このシャボン玉から世界が創造されたと考えた方が人生楽しいかも(笑)。

とにかく、キリストがは伝道師ではあって創造主ではなぁーい!。
って言いたいのと、少し卓越した力を「神」と流行語にするなあと言いたいわたくしでした(笑)。

今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。

明日は…悪人を書こうかな?