相手は博愛、自分は恋 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

明日は応援要員に狩り出されたのでblog更新できそうにないから夜の内に。

今回はかなり自分なりの解釈ですので最早、私的見解です。「彼」の名前出すまでも無いでしょう(笑)

で、予告通りの恋と片思いですが、

「恋と言う物が完全に片側の奉仕ならば、自信無き者は先制攻撃するが良い。」

「相手からの愛あればこそ、初めて恋に落ちることが出来きるのだ。」

「その愛さえも疑うなら、金と権力、睡眠薬さえ利用するが良い」

え~と…突っ込みたいのは、一呼吸置いて、150年前位に書かれた言葉です!

私は相手の愛を疑う=現在のストーカー行為と考えます。
その時代からその様な配慮、良識があって驚きました(笑)。
しかし、問題は相手からの「人間愛=博愛」です。

私は「全くの接点無い相手に恋はしない」
と思います。
親しげな会話や微笑みには必ず相手への「好意」があると思います。

それを「自分だけの恋や愛」
と受け止めると…温度差地獄に堕ちるだけですね。

思うに、とかく「友情」の安売りや「嫌いじゃない」の連発は人間愛を軽視してると思うのは私だけでしょうか?

カップリング=彼氏彼女の優越性は、成立前の打算と焦燥を呼び込み、
逆に自らが恋心を抱いていない相手には「恋をされない努力」までする最近の若者事情。
う~ん、恐れ入ります。

私見では今時の「肉食」だの「草食」だの遂には「植物」まで言われる男性諸君。
いやあ見えてても相手にされない「石ころ」は「鉱物系女子」ですから!

って一応代弁者として反撃を(笑)

で、世界平和の愛を信じれない奴は「金、権力、睡眠薬」を利用して好みの相手をゲットして下さいませ(笑)。
そこに愛は無いけど

「生きるとは魂に自らの愛のすべてを内蔵させること」byキルケゴール

今さっき読んだ一節です。
なんか母の言葉と似てて驚きました(笑)。

追記 仕事で読書が追いつかないで、遂にネタ切れです。

明日からは暫く「日本史を狂わしたイケメン達」を書きたいです。