血は争えない | 丼の底が見えて初めてご馳走さまが言える

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趣味がオーシャンパドリングなアラフィフの
美味しく食べたときの記録

2023年12月18日にテーマ転生

亡き親父は会社をやっていました。

 
日本を冠した社名で。
 
25歳まで生まれ育った実家はRC造3階建で、
 
物心ついた頃、一階で母がスーパーをやり、
 
親父の会社の事務所が二階にありました。
 
 
 
僕は小学校3年生あたりから前の記憶が曖昧です。
 
ほとんど覚えてないです。
 
お袋いわく、僕が小さい頃は親父の事業は結構うまくいっていたそうです。
 
毎晩のように接待で飲みに出てひどく酔って帰ってきては夜中に叩き起こされて説教をされたりしたので親父を怖いと思い、
 
そのうち自分の体が大きくなるにつれて、暴力を振るうことはしませんでしたが
 
怒鳴り合いはしょっちゅうというような反抗をしたり、
 
というように親父を疎んでいました。
 
だから親父の手掛けてきた事業や案件について詳しく話を聞いたことはありません。
 
途切れ途切れに聞いた話や、取引先の方々が出入りしていた記憶を重ねて、
 
水処理関係の事業をしていたことは分かっています。
 
宮崎のドライブイン跡地を買収して車海老の養殖をすると言い出して、家族全員で反対したっけなぁ。
 
小4からしばらくのあいだ、野田に微生物センターを作って、うまくいかず撤退してたっけなぁ。
 
あれは夏休みにカブトムシをたくさん取れたから僕にしたらちょっと良い思い出ですが。
 
 
僕が中二のときに脳腫瘍の摘出手術を受けてから、
 
最終的に計3度の開頭手術を受けるような不健康な体調で、
 
僕が高校に入る頃には会社は開店休業のような感じでした。
 
化粧水の特許を取ってましたが営業もままならず、自宅を担保に資金を調達して株に投資していました。
 
株の投資はそこそこ良い時期があって親父が嬉しそうに自慢していたのを記憶してます。
 
しかしだんだん目減りしていったようで、
 
僕が就職してしばらくしたときに
 
金融機関の貸し剝がしの要求が強くなったことから株と自宅を売却しました。
 
こども心に、中小零細の会社を営むとロクなことがない、株は怖い、という印象が植え付けられました。
 
だから中堅ゼネコンに就職し、一時は消防官を目指すなどして、
 
自分で会社を営むなんてサラサラ考えてませんでしたし、むしろ嫌っていたくらいです。
 
株なんて、とてもとても。
 
 
 
それがどうでしょう。
 
気づけば会社を興し細々ながら維持していたり、最近では投資を始めてみたり。
 
全く、血は争えないもんですね。
 
 
初めて投資した案件には「AQUA」という名前が出てきます。
 
親父の基盤であった「水」処理関連との縁を連想させます。
 
親父は、いくつか持っていた特許をうまく活かせていたら権利収入を得れたかも知れないですが、
活かすことができずに終わりました。
 
いま僕は近い将来に権利収入が得られる可能性がある5Gにまつわる案件に参加しました。
 
なんだか親父が成し遂げられなかったことを、形は違えど成し遂げようとしているような。。。
 
事務所を営み、複数の投資を始め、収入の柱を分散していきます。
 
毎朝仏壇に手を合わせて親父に話しかけています。
 
たまに返事をしてくれたように感じるようなテレパシーというかイメージというか
 
そのようなものを受け取ることがあります。
 
きっと背中を押してくれているんでしょう。
 
 
 
今日、事務所設立10周年の日です。
 
血は争えない。
 
遠からず、親父によくやったと言わせてみせます。
 
 
 
一昨日の投稿に書きましたが、投資で余剰が出たら全てライフセービング活動につぎ込みます。
 
手始めにニッパーボードを配って回ります。
 
楽しみだなぁ。
 
 

生まれ育った家のそばの鷹野橋人道橋からみた鶴見川と富士山です。
 
この写真を見るたびに込み上げるものがあります。
 
親父の想いを叶えてみせるぞ。