超強敵のドスラーデスをやっと倒し(→星のドラゴンクエスト)、これがラスボスじゃなかったんだ。。。と茫然としているスーパースターさくらです
しかしドラクエも人生も、life goes on, we move on!! 美魂的政治論を書き始めて、本当に素直に、心に湧いてくることをそのまま書いていると、これまでいかに自分の言動に“縛り”がかかっていたかが分かります。
自分の思想なんか持ってると、「党職員」という枠内においては、窮屈でしかなかったですね。機関紙記者をやっていたくらいですから、「党の公式見解」というのがあるのも理解しているし、しかし個人的にはその公式見解が常に正しいと感じるわけでもない。
そこから外れたことを、職員として公言するわけにはいかない。特定の議員を絶賛することも控えなければいけない。所属国会議員すべてに、平等に接することが求められるからです。
個人としてではなく、「自民党職員」としての言動に常に縛りがかかっていたわけですが、そんなの律儀に守ってたら、誰とも“心のふれあい”は生まれないんですよね。
自分が「これは素晴らしい」と心から感じることを、情熱を持ってお伝えするのは楽しいけど、「こんなの絶対、間違ってる」と思うことを、素晴らしいことであるかのように書かなくてはいけなかった心の葛藤。
嘘ついているような気がして、本当に常に気持ちはどんよりとしていました。
「いい職員」というのは、どういう体制になっても、どんな思想であっても、何の疑問も持たないで、あるいは心に思うことはあっても、「仕事だから」と割り切ってできる人たちなんだろうと思いますが、言動の一致には強いこだわりがあるので(→アスペルガーさくら)、間違ってると思うことを正しいとは言いたくない。
組織の論理で、「みんなやってるから」と言われても、自分が違うと思うことはやりたくないし、できない。
いちばんショックなのは、自分では間違ってるとは思ってなかったし、正しいと思ってやってきたことが実は間違っていたと分かったとき、それは自分が世の中に対して嘘をついていたことになるのではと、心が折れてしまったわけです。
さすがに「原発がクリーンエネルギー」などというのは当時から変だと思っていましたが、原発反対とか、移民歓迎とか、個人的な思いとして持っているのは自由だけど、自民党職員的にはそれは「表では言えない話」。
いくら私個人の考えだと断っても、「自民党の職員がそう言ってる」と、どこかで誰かが耳にしたら、批判のタネにされかねないから。公務員じゃないんだから、思想信条の自由はあってもいいのですが、“組織の縛り”で言えないことはたくさんあったのです。
とりわけ口に出してはいけないことというのは、この思想信条の部分ですよね。「そんなの絶対違うだろう」、という個人的見解。
組織の中で生きるならば、面従腹背くらいできないといけないのでしょうけど、私にはできなかった。なので人や政策の好き嫌いをハッキリできて、思ったことを素直に口にできる自由があるいま、私はとても幸せなのです。
同様に、信仰上、私はカトリックですが、バチカンの決めることがすべて私の思想信条と合致しているわけでもありません。
神様がおつくりになったものはすべて善であるとするならば、LGBTの方々をなぜ認めないんだということや(doesn't make sense!!) 、すべてのabortionがなくなればいいなと思うけど、だけどいろんな事情があるから、そうした方がいい場合だってあるので、私はpro-choiceです。
安易なabortionは戒められるべきだと思いますが、 望まぬ形で命を宿してしまって、本当に辛い決断をした女性に、これ以上罪の意識を背負って苦しんでほしくないと思うからです。
自分が自分であることと、所属している組織の価値観と合わなくて不具合が起こることは、日常あちこちであるのだろうと思うのですよ。
だけど自分を規定するのに、内側から溢れる思いより、外側の価値観に自分を合わせてしまう人のなんと多いことか。
特に謎なのが、「ケンミンショー」とかいう番組。「〇〇県人」だったらこういうものだ、という情報があふれかえっていますけど、本当に全員が全員、それに当てはまるのかな?と思うのです。
そういう“ステレオタイプ”なイメージが放映されて、余計に「イメージ通りに振る舞わなければ」と感じている人が増えてしまうのは、いいことなのかなあとも感じます。
例えば、大阪人は道でいきなり斬りつけられても「わーやられた!!」というリアクションをする、と言われているとおり、みんなやってくれますよね(テレビで実験しているのを観ました)。私はもし大阪で生まれ育ったとしても、いきなりそんなことされて、“期待通り”のリアクションができるんだろうか?と真剣に悩みました。
関西人がよく、「で、オチは?」と、人の話にいちいち笑いを要求するのも、日々ものすごいプレッシャーの中で鍛えられていて、「それが当然」だから、人にもそう求めるのかなあと感じることもしばしばですが、笑いのセンスに優れた人たちばっかりじゃないだろうし、なんだかものすごくいろんな“周囲の期待”に応えないといけない環境な気がします。私の好きな関西出身の方々は、そんなデリカシーのない人たちではありませんけど。
ちなみに私さくらは、生まれ育ったのは確かに徳島市ですが、人生の半分を東京で過ごしていて、さらにアメリカにも2年半いたため、自分のアイデンティティは何なのか、正直言ってよく分からない。徳島ローカルの人たちからは、「東京の人」といまだに思われているし、東京にいて自分が東京の人だと思ったことは一度もないですし。
それに「徳島出身なら、阿波踊りができるだろう」と思われるのは、大きな誤解でしかないのですよね。まして「阿波踊りの太鼓と鐘の音を聞いていると具合が悪くなる」なんて、言いにくい。小さい頃のトラウマがあるので、いまでも嫌なのですよ(→理由)。
パンクロックの爆音は大丈夫だけど、和太鼓や鐘の音は好きじゃない。浴衣や着物も、人が着ているのを見るとキレイだなと思うけど、締め付けられるのが嫌だから自分では着たいとも思わないし、お米よりパンが好きだし、「伝統的な/日本的なもの」が、とにかく私はあんまり好きではないのです。
音楽は絶対洋楽派ですI love Coldplay!!
だけどこれは私の好みであって、すべての人がそうであってほしいというわけではないし、好きな人もいるだろうし、嫌いな人もいるだろうというだけの話。
それを「徳島の人なら、当然~だろう」とか、「日本人なら、やっぱりこうだよね」いう文脈で語られると、そういうステレオタイプにはまらない自分のことを、悪いとは思ってないけど、ご期待に沿えなくてごめんなさいね、と多少は思う。
別にそんなこと思わなくっていいし、会話でもそういう“決めつけ”を排除すればお互いに楽なのだと思うのですよ。
例えば、「さくらさんは徳島のご出身ですから、阿波踊りはもちろん踊れるんでしょう?」と言われるのと、「さくらさんは徳島のご出身ですか。徳島といえば、阿波踊りですね」と言われるのでは、ここから展開される会話はまったく違ってきますよね。
「いや、私は阿波女ですけど、阿波踊りは踊れないんです(しかも好きでもない)」と気持ちが下がるのと、「そうそう、阿波踊りのときはすごい盛り上がるんですよ。私は踊れないんですけどね。ハハハ」と軽い返しができるのと、どっちがいいか。
同じ「徳島は阿波踊り」ということを会話のきっかけにしたいのなら、最初から「決めつけ」を排した方が、「そうでなければいけない」という枠を決められるよりも、圧倒的に自由です。こういう会話ができる人は、好ましいですし、話もしやすいですね。
これも私の好みであって、お互いに「〇〇なら、こうだろう」という世間の常識や通説にいかにあてはまるかを競い合うのが好きな人たちもいるでしょうし、それはそれでご自由にどうぞなのですが、こっちにそれを押し付けてこないでほしいというだけの話。
要は、“自分の知ってる範囲のイメージ”のなかに、人を押し込めようとしなければ、かなり風通しがいいコミュニケーションが可能になると思うのですよ。
人はもっとユニークであり、同じところで生まれた人がロボットのように同じであるわけがない。
国際的な日本女性のイメージもいろいろあるのでしょうけど、そんなtypical Japaneseにはなれないし、多少の文化的な習慣なんかは共有しているとしても、それでも各家庭で結構違うものだし、
こういう“神話”みたいな話に縛られて生きるのか(みんながそうだから、そうしなければいけない)、そこから自由になるのか(そういう人たちもいるけど、そうでない人もいる)は、多様性の尊重という点において、非常に大事なのだろうと感じています。
世の中的に、いろんなイメージや先入観や偏見をくっつけて見られるだけでも窮屈なのに、それに縛られて生きるなんて、私は真っ平ごめんだわ。
私は私でしかないし、あなたはあなたでしかない。それぞれ唯一の魂の輝きを持ってこの地上に生まれてきた、ユニークな存在なのだから。
その美しい個性の光を、私は見たいし知りたいのです。
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