こんにちは。
エニアグラム講師の
中井美幸です。
私のお絵描き人生ストーリー
がほぼ出来上がりました。
課題提出でもらった
先生のお手本を読んだとき
ストーリーだけで
十分価値あるって思ったのです。
そこでまだストーリーしか
出来ていませんが
私の台本公開します。
結構長いので
音声版もあります。
『みゆき先生
I love mama代表
自分を知り他人を理解するツールであるエニアグラムで、タイプ診断のセッションを250名以上行い、人間関係の向上にアドバイスしている。
エニアグラムを学んだ方は自分らしく他人と関われるようになったと喜ぶ方が続出。
エニアグラムを活用した起業塾では
「自分らしく働けるようになった」
「自分だけでなくご主人の臨時収入が50万入ってきた」「エニアグラムを学んでから引き寄せが上手になった」
など嬉しい声を多数頂いている。
プライベートでは海外に住んでみたい、家政婦が欲しいと思っていたら、1か月でインドネシアへの転勤の話が舞い込んだり、子どもと留学の話が来て実現するなど、やりたいことを次々と実現、引き寄せを起こし、夢を叶え続けている。
でもそんな私も、ここまで来るのに順風満帆ではなかった。
1983年3月20日 奈良県で生を受けた。未熟児だったが、ミルクをよく飲むので、保育器に入らず元気な赤ちゃんだった。
銀行員で真面目な父、家族思いでいつも笑顔の母の長女として生まれた。
8歳年上の兄と年子の妹がいる。5歳上の兄は5歳の時に川でおぼれて亡くなっていた。
おとなしく家で過ごす兄とは違い、外で遊ぶのが好きで木に登ったり、建物の上に登ったりするやんちゃな子だった。一方でけがをすることも度々あり、捻挫に良くなり整骨院によく通った。
子どもの頃アイドル戦隊に興味を持っていた。人見知りだけど目立ちたい気持ちもどこかにあった。アイドル戦隊のように人のためにカッコよく戦う姿にあこがれた。クリスマスプレゼントでは衣装をもらい、妹とごっこ遊びを楽しんだ。
基本的には温厚な両親。仲はとても良かった。
兄が亡くなったことをずっと引きずっていた母。子どもの泣き声をきくのがすごく辛いようで、特に母に怒られるようなことはほとんどなかった。
母はお菓子を作るのが好きで、誕生日には手作りのケーキや私の好きな料理を毎年必ず作ってくれた。母はいつも温かくて、寒い冬に母の手で冷たい手を温めるのが好きだった。
母はいつも家族優先。一度だけ和裁の仕事を始めたが、
妹がある日母に電話して「寂しい」と泣いた。
子どものために自分の好きなことを諦めたのだった。
そんな優しい母は原因不明の病気を抱えていた。それは熱が出ると筋肉が破壊される病気だった。
母は熱が出たり、無理して動くと、筋肉が破壊され歩けなくなった。そんな時は「誰にもわかってもらえない。Kのところに早くいきたい。」と兄の名前を叫んで泣いていた。どんな声をかければよいか。。。。甘えてばかりの私も、この時ばかりはできることを手伝った。
小学生のころ、運動神経はよく、運動能力賞をもらっていた。リレーの選手にもよく選ばれた。
縄跳びも得意で、学校の休み時間のたびに縄跳びをしていた。小学校5年生にして膝を痛めることになった。家族には「頑張り過ぎよ」と言われた。
吹奏楽でエスバス(チューバの少し小さい楽器)という楽器を拭いていた。
毎年あるマラソン大会は大の苦手だった。吹奏楽のおかげで肺活量が急激に増え、初めて1位になってビックリした。
やんちゃな私は怪我が多く、整骨院やクリニックもよく行った。
患者さんのために優しく接してくれる看護師さんにあこがれた。
中学ではテニス部に入った。人と争うのは苦手で、友達に合わせてしまい苦手な球技を選んでしまった。
友達が帰ろうと言えば、部活に参加せず帰る。
そんな中途半端な自分が嫌だった。
クラスメイトには恵まれ、クラスの中心的グループの中にいた。テストは2週間前に勉強すると決めて、勉強していた。学校の成績は優秀だった。高校受験もいつものように一生懸命やれば何とかなると思っていた。
ところが高校受験の時に初めて挫折を味わった。私立2校のうち滑り止めの1校に落ちてしまった。公立希望だったため、行きたかった公立のランクを下げて受験した。
完璧主義な要素があり、とにかく朝から晩まで勉強すれば何とかなると思っていた。要領よくやるのは苦手で、隅から隅まで詰め込んで勉強していた。
外では穏やか、ニコニコ、怒らないのに、家に帰ると貯まったイライラを「くそばばあ!!」などと家族にぶつけていた。
受験に落ちた時もこんなに勉強したのになぜと受け止められず、家族のせいにした。
行きたかった高校ではなかったが、合格できたことに満足し、華やかな高校生活をイメージしていた。
しかし中学とは違って、クラスの中心的グループには入れなかった。どこか自分の居場所ではないもやもやがあった。
そのフラストレーションを発散する場が高校の剣道部だった。私の中で大事な居場所になっていた。引っ込み思案な自分と目立ちたい自分と両方いた。剣道部では仲間を引っ張る自分がいた。
年の離れた兄がいるので、その当時の母は同級生のお母さんよりも歳が上だった。それがコンプレックスで、
授業参観には「来ないで、恥ずかしいから」
三者面談では「離れて歩いて、お母さんだと思われたくない」
と冷たく言った。
母は私がひどいことを言っても、いつもと変わらずニコニコ笑って「ごめんね」と。
母に申し訳ないと思う気持ちと、抑えられないイライラに苦しんだ。
高校1年生の時、学校に電話があった。
部活の顧問が
「いますぐ電話に出なさい!お母さんが救急車で運ばれた」
頭の中が真っ白になった。
「お母さんが死んだらどうしよう」
と慌てて自転車をこいだ。
母は生まれた時から筋肉が破壊されやすい体質だったので、手術はできないと言われた。集中治療室で治療は施せず、ただ命が助かるのを待つしかできなかった。
母にはいつも甘えっぱなしで家事も一切しなかった。母が急に入院することになり、父も兄も家事が全然できなかったので、妹と私がすべての家事をすることに。母の大変さがよくわかった。
数日後、母が目を覚ました時は心の底からほっとした。
「お母さん、生きててよかった。」と病室で手を握った。
母がいることのありがたさが身にしみた。
あの時何もできなかった自分を悔やみ
「お母さんの役に立ちたい」
そう思って看護師の道を決意した。
母はその後躁鬱がひどくなった。もともと家族のために何かしてあげることが好きだった。何もしてあげられない自分を責めていた。また再発したらどうしよう、背中の痛みが出るたびに命の恐怖が襲ってくるようだった。
いつもニコニコしている母から、笑顔が消えていった。どんな声をかけても母は不安な様子だった。家族の笑顔も少なくなっていった。
公立に行ってほしいという親の要望があり、千葉県内で探したが気に入る看護短大がなかった。
そこで祖母の家から通える大阪の看護短大を見に行ったところ、
「ここに行きたい」と思う看護短大に出会い、親元を離れた。そんな私を母は「頑張ってね」と応援してくれた。
私は短大時代祖母の家でお世話になった。一緒に住んでいた叔父も躁うつ病を持っていた。母より程度がひどく、特に躁状態になると家族は手を付けられず、入退院を繰り返していた。
精神疾患の薬のコントロールの難しさを知った。
3年の短大生活を経て、念願の国立病院の看護師になった。長年の夢が叶った時、幸せでいっぱいだった。憧れの白衣、患者さんのために笑顔で働き、「ありがとう」と言ってもらえ、やりがいを持って働く日々をイメージしていた。
だが、実際は全く違っていた。
カルテの情報収集すら、ままならない。誰よりも早く職場に行っても、仕事が終わらない。
8時に終わる夜勤の仕事が終わらず、気がついたら昼まで病棟にいた。
「いままでこんなに出来なかった人はいない。歴代に残る。」とまで言われた。
毎日行くのが嫌で嫌で仕方なかった。できない自分を見せられず、お世話になった祖母の家には行けなくなった。毎日泣き続けた。「もうやめたい、いなくなりたい」と何度も思った。もうやめてやると思っても責任感からか、休むこともなく遅れることもなく行き続けた。
こんな自分でも少しずつできるようになり、3年は続けようと耐え抜いた。
3年でやめるころには結婚も決まっており、ようやく苦しかった看護師をやめることができた。
結婚して2年で娘を授かった。
私は子どもが生まれたら、以前テレビで特集されていたベビーサインをやろうと決めていた。
話せない赤ちゃんと手話やジェスチャーでコミュニケーションを取っている姿に感動したからだった。
そして娘が生まれ、ベビーサインを習い、赤ちゃんのベビーサインの可愛さ、赤ちゃんの世界がわかったり、言葉が話せない子でもコミュニケーションが取れることに感動した。
ベビーサインができるようになるまでは、泣いている理由が何なのかわからず、一緒に泣いた日もあった。でもベビーサインと出会って、自分自身で要望を伝えてくれるので、劇的に子育ては楽に、そして何より楽しくなった。
看護師としての自信をなくし、もう二度と戻らないと決めていた私。ベビーサイン育児にはまり、ベビーサインをもっと知ってもらいたいと資格を取った。看護師時代は仕事に行くのがつらかったけど、自分で初めて心から楽しいと思える仕事に出会った。
当初は資格だけ取ってそのうち仕事に、と思っていた。
しかし講師の先生に「資格をとってもすぐに活動しないと無駄になるよ。」と言われ、やってみることに。
基本は人見知りの私。
あの時はとにかくベビーサインを知ってもらいたくて、支援センターで猛アピール。支援センターで無料の体験会をやったことをきっかけに、15人の生徒に出会えた。
人前で話すことすらドキドキだったのに、自分の想いを伝え、初めてたくさんの人がきてくれたことに感動した。
生徒さんからは
「ベビーサインと出会って赤ちゃん観が変わりました」
「まだ上手に話せない我が子とコミュニケーションが取れるのが良かった」
と嬉しい声をもらって、自分の好きなことが仕事になった喜びを初めて知った。
「大好き」のベビーサインが好きで、屋号を「I love mama」にした。
一方で主人は転勤のある仕事だったので、行く先々でいちから集客することの大変さを知った。
ある時、時間をかけている割に、全然稼ぎがないことに気づいた。家族との時間も仕事で削っているのに、何のために私は仕事をしているのか。仲の良かった夫婦生活も少しずつ溝ができるようになった。
もともと感謝の気持ちを伝えてくれる優しい夫から、感謝の言葉が消えていった。買い物なども積極的に手伝ってくれる主人なのに、ありがとうと言えず、文句ばかり言っていた。私の間違いを指摘されると、逆切れした。いつしか私も仕事してるんだから手伝ってくれるのは当たり前になっていった。主人は私には何を言っても無駄だと、何も言わなくなった。
出張の時にはそのまま帰ってこなくなるのではと、そこまできて急に不安になって帰ってきた主人に泣きついた。
いつしかこのままでは「離婚」なんて言葉もよぎるようになった。
そんな時に、自分の働き方を変えた方が良いのではないかと考えるようになった。
そこで初めての起業塾に入った。
今まですべて我流でやってきたので、とても新鮮で面白かった。その当時は趣味を生かしたカメラマンの仕事がメインだった。月10万稼ぐことをうたった起業塾で学んだ結果、10万稼げるようになっていった。
その後、あるコミュニティの勉強会でエニアグラムと出会った。
エニアグラムとは誕生日を使わずに相手のタイプがわかるというものだった。
エニアグラムに興味を持ったというよりは、講師の先生に魅力を感じた。
その先生は世界中を旅し、日本に戻ってエニアグラムを使い営業マンとして働いた結果、業績TOPになったという経歴を持っていた。
私もそんなふうになりたいと。
学んでみると看護師時代の苦しかった自分の心をエニアグラムの図で振り返ることができた。
エニアグラムで自分の心が見えてくると、看護師時代のできなかった自分を許せるようになった。
私は完璧主義で、自分のできない、間違っていることを指摘されると大きなストレスを感じやすい。その一方で、嫌なことは泣いたら忘れ、無気力になる、正反対の性質があること。
ストレスがかかるほど、人のできない点を指摘したり、ヒステリックになる。
そして自分を責め、人に依存していく。
頑張り屋であるからこそ、ぐうたらする自分でバランスをとっていることなど認められるようになった。
エニアグラムを学ぶと母のタイプもわかるようになり、母の心の状態もわかるようになった。
看護師になったのは母のために役に立ちたかったんだと思う。でも実際は私には肩の荷が重すぎて続けることができなかった自分をどこか責めていた。
結婚してから少しずつ夫婦に溝ができていたことも自分の特性「人のできていないところに目がいく」「間違っているところ指摘されるのが受け入れられず、素直に謝れない」が問題だったと知った。
また主人の特性を理解することができるようになり、関わり方が変わっていった。
そのおかげで夫婦仲は大きく改善し、今では新婚の時以上に夫婦仲良くなれた。
主人からは「ママが変わった。おおらかになった。」と言われるようになった。そして主人からの感謝の言葉も結婚した当初以上に増えた。
仕事も家庭も順調に進んでいたころ、コロナで今までやっていたリアルの仕事が突然なくなった。何とかしようと当時学んでいたエニアグラムで人を見る力がついたのか試してみようと思い、100人のタイプ診断を3-4か月でやり遂げた。
その後もっと自分自身の成長に繋げようと250名以上セッションをした。
セッションを受けてくれた方が紹介してくれ、どんどん広がっていった。
セッションを受けた方からは
「自分を責めなくなった。」
「生きやすくなった。」
「息子の性格がわかり扱いやすくなった。」
「旦那さんにイライラすることが減った。」と嬉しい声をもらった。
中には「子育て中に知れたらよかった」
とお子さんを紹介してくれた方もいた。
そして人にエニアグラムを伝えていくことを決意した。
しかしなかなか生徒集めに苦労した。
そんな時に出会ったのが宝地図作成のイベントだった。なんとなく名前は聞いたことがあり、いつか宝地図を作ってみたいと思っていた時だった。
参加した時に作ったのは親子留学したい、大きな家に住みたい、家政婦が欲しい、英語ペラペラになりたいなどの夢だった。
その後の個別相談でこの夢を叶えようと2度目の起業塾に入ることを決意。
そしてその1か月後に、海外転勤志望を出していなかった主人にインドネシアへの転勤の話がやってきた。
その後エニアグラムの講座が一気に売れはじめた。
そして自分のアウトプットのためにとエニアグラムを活用した起業塾も始めることにした。
蓋を開けてみればエニアグラムの生徒さんが起業塾に入ってくれた。
そこで感じたのはエニアグラムで相手の心を理解することは絶大なる信頼関係を作るのだということだった。
またなぜここまでの引き寄せストーリーができたのか。
エニアグラムで自分のストレスサインに気づく力がつき、自分の心を整えるのが上手になったこと。
相手の心を理解する力がつき、イライラしたり不安になることが少なくなったから
そう、エニアグラムを通じて自分の出す波動が良くなったんだと!!
実際にエニアグラムを受講した生徒さんからは
「家族関係が良くなった」
「人間関係に悩まなくなった」
「客観的に見られるようになった」
「自分を責めなくなった」
と嬉しい声をいただいた。
起業塾とエニアグラムの講座の両方を受けた生徒さんは引き寄せが強くなったと教えてくれた。
そして起業塾の生徒さんも
20万ほど稼いで卒業することができた。
そして夢が叶いやすくなったことも教えてくれた。
起業塾では起業の始め方はもちろんのこと、生徒さんのタイプをエニアグラムで診断し、生徒さんにあった発信方法、心の整え方などをお伝えしている。
エニアグラムを私が学んでとても良かったと感じるのは子どものことだった。
長女がタイプ4芸術家、5観察者の娘だと知った。その子がエニアグラムに一番興味を示し、面白いと感じてくれた。
タイプ的には不登校になりやすいタイプ。だけどエニアグラムを通じて苦手な子との関わり方、自分の心の状態を知り、5回目の転勤先でもこの子らしく楽しんでいてくれている。
それを見るうちに、今増えている不登校の子供たちもエニアグラムを学べば生きやすくなるんじゃないかと考えるようになった。
エニアグラムは自分の心を客観的に見ることができるツール。また相手を理解できるようになるツール。そのツールを使って、子どもたちに子どものころから自分を知り、相手を理解する力をつけたいと思うようになった。
そんな時にエニアグラムの生徒さんの知り合いが偶然学校の設立に関わっており、なんと3か月で学園長とお話しすることができた。
生きづらさを感じる人が生きやすい世の中にしたい。躁鬱になる前に、自分で自分の心を客観的に見る力をすべての人につけてほしい。
子どもたちに人を見る力、自分を客観視する力をつけて、自殺率を減らしたい。
エニアグラムをお母さんが子どもに伝えるのが当たり前の世の中にしたい。
私は体が弱く、心も弱かった母に何かしてあげたかった。
でも実際はいつも家族のために自分を犠牲にしてまで無理をしてしまう母に甘えてばかりだった。そういう母のようなお母さんは世の中にたくさんいる。
母のようにやりたいことを家族のため、転勤のために諦めてしまう女性をサポートしたい。
お母さん自身が自分の好きなことを仕事にしたり、自分の気持ちを大事にすれば、幸せな家庭は増えて行く。
家庭が安定すれば、子どもたちの心も安定し、いじめはなくなり、未来は必ず明るくなる。
子どもの頃から人を見る力をエニアグラムで育てたいと、建設中の学校とのプロジェクトを推進している。
子どもたちやたくさんのお母さんを笑顔にするために、日々活動している。』
これから絵を準備していくのですが
絵と合わさると
またどう変化していくのか
お楽しみに。
1月28日(日)20時から21時半
たおやか寿祭にまた参加します。
エニアグラムのお話が無料で
聴けますよ。
是非よかったらお越しくださいね。
参加希望の方はFacebookグループへ
Facebookされてない方は
公式LINEより
メッセージくださいね。
毎週木曜日10時頃
YouTube LIVEやってます。
是非よかったら遊びに来てね。
そのあとInstagram
@miyukingmamaでも
LIVEしてます!
親子で学ぼうエニアグラムも
97名募集中
親子で学ぶ場合はマンツーマンで。
お子さんの好きな芸能人、
スポーツ選手、アニメのキャラなどを
教えてもらえたら それを取り入れた内容にします
身の回りに不登校に悩む方が
いたらぜひシェアしていただけたら嬉しいです。
お子さんに人間観察力をつけたい方も
大歓迎!!
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