琉球は薩摩の「奴隷」だった!? | 日本が良くなりますように

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沖縄の方のブログより引用させて頂きます<(_ _)>

段落毎のタイトルは私が書きました

 

 

 

定説

 

 

近世(江戸時代)の琉球王国は薩摩藩の支配下におかれていました。薩摩の琉球支配でよく言われるのは次のような説でしょう。

 

征服者の薩摩藩は琉球王府を形だけ残し、中国との貿易で得られた利益を徹底的に奪い取る一方、琉球を植民地化して人民を奴隷のように扱ったと。

 

薩摩に支配された琉球の悲惨な状況は、明治の琉球処分によって解消されたと伊波普猷によって主張されています。彼の「琉球処分は奴隷解放なり」という言葉は有名です。はたしてこのような説は正しいものなのでしょうか。

 

 

「植民地総督」はいない。スタッフはたった十数名

 

 

 

実は、伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

 

まず、琉球には薩摩藩の「植民地総督」はいたのでしょうか。琉球には「在番奉行」という薩摩役人が派遣されていましたが、スタッフの総数はたったの十数名しかいませんでした。

 

 

 

琉球には薩摩藩の出張所程度の機関しかない

 

 

彼らの滞在場所は那覇の港町にほぼ限定され、しかも薩摩藩スタッフは国王との接触を厳しく禁止されていました(政治的な癒着を防ぐため)。彼らの仕事は薩摩への年貢送付の監督やキリシタン禁制など限られたもので、王府の政治に関与する権限は全くありませんでした。

 

つまり、琉球には薩摩藩の出張所程度の機関しかなく、琉球国内の政治は琉球王府が行っていたのです。

もちろん琉球は薩摩藩を無視して自由に動けたわけではありません。薩摩藩は支配に関わる重大事についてはしばしば介入してきましたが、最終的な政策の実行はあくまでも琉球王府の手にゆだねられていました。

 

 

薩摩藩の指示に対して「奴隷」のように従っていたわけではありません

 

 

それに琉球は薩摩藩の指示に対して「奴隷」のように従っていたわけではありません。例えば、18世紀に薩摩藩が年貢の増額を要求してきた際には、琉球側はねばり強く外交交渉を行い、ついに薩摩藩からの譲歩を引き出しています。

 

この時に琉球が負担軽減の理由として持ち出してきたのが、「中国の清朝と日本の徳川幕府との外交で多額の資金を費やしたのにくわえ、災害などで国内の状況が悪化したから」というものでした。つまり、これ以上の負担は琉球の体制を危うくすると主張したのです。

 

 

近世の琉球は中国や日本との外交関係を維持することで成り立っていた国家でした。

 

徳川幕府も琉球やアイヌを従属させることで日本版「小中華」をつくり、自らの権威を高めようとしていました。琉球との外交関係を維持するため、幕藩制国家のもとで琉球支配を担当していた薩摩藩にとっても、琉球の体制が存続できなくなるような重い負担はかけることはできなかったのです。

 

琉球側は薩摩藩が反論しにくい理由をあらかじめ承知していて、この論理を持ち出すことで薩摩藩からの譲歩を引き出すことに成功したのです。ちなみにこの時の琉球の外交を主導していたのは、あの蔡温(さいおん)でした。

 

 

琉球は中国と貿易をやめたくてもやめられない事情があった

 

 

※薩摩藩は自ら資金を用意してきて、王府貿易に投資していた

琉球の中国貿易は、実は大幅な赤字状態だった。(「朝貢」だった)

※琉球は薩摩藩との貿易で儲けたお金でなんとかしのいでいた。

家臣たちが商売を続けるために中国との赤字貿易を継続しなければならなかった。

 

 

 

また、薩摩藩は琉球が中国貿易で得た利益を一方的に奪い取っていたのでしょうか。

 

たしかに薩摩藩は琉球の中国貿易に深く関わっていました。しかし、薩摩藩は自ら資金を用意してきて、王府貿易に投資するかたちをとっていました。そして、驚くべきことに琉球の中国貿易は、実は大幅な赤字状態でした。

 

王府は砂糖をヤマトに売って儲けた金で損失を補い、何とか貿易を続けていたのです。

 

赤字状態でも貿易を続けざるを得なかったのは、貿易が「朝貢」という、中国への従属関係を確認する儀礼とセットになっていたことと(貿易は本来、朝貢のおまけにすぎません)、王府が家臣たちにボーナスとして個人的に貿易を行う権利を与えなくてはならなかったからです。王府の貿易自体は赤字でも、家臣たちは各自で商売をして利益を得ることができました。

 

 

薩摩藩は効率の悪い貿易の縮小を望んでいた

 

 

このように琉球は貿易をやめたくてもやめられない事情があったのです。逆に薩摩藩は自分たちの資金を調達するために商人から高利の借金をしていたので、効率の悪い貿易の縮小を望んでいました

 

近世の琉球は、たび重なる薩摩藩の要求に対して、「論理」を武器に巧みな外交戦術で自らの国益を確保しようとはかっていました。薩摩藩は琉球を支配下に置いていたものの、その支配には限界があり、琉球を完全にコントロールすることは不可能だったのです。中国の朝貢国であった立場も、薩摩藩が介入できない余地を琉球に与えることになりました。小国の琉球は自らのポテンシャルを最大限に発揮して大国に立ち向かっていたのです。

 

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、安良城盛昭『新沖縄史論』

 

画像はwikiより