幕末 日本外交は弱腰にあらず
日米和親条約はアメリカの脅しに屈して結んだ通商条約ではなかった。
幕府の役人はすごかった!
江戸時代を見直しましょう。
是非!ご覧下さい!
1)日米和親条約
1853年6月3日 ペリー 大統領の親書を持って来航
全権大使は林大学頭(はやしだいがくのかみ)
ペリーは「戦争になるぞ」と恫喝、交渉をはじめる。
「条約の締結が受け入れられない場合は、戦争になるかもしれない!!」
「当方は、近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。
これら100隻は20日間で到着する。」
ペリーは祝砲とはいえ大砲を50発も打ち日本側を威嚇。
しかし、林は動じない。
交渉ではペリーが林にやりこめられている( ̄□ ̄;)!!
情報通だった日本の外交官。
林家は江戸時代に外交文書を司っている家でした。
バタビアから幕府に提供された世界情勢の報告書であるオランダ別段風説書を持っており、
ペリーのことは何もかも調べ上げていたようです。
1840年~42年アヘン戦争がありました。
アヘン戦争でイギリスにやられ、香港を割譲することになった清を知っている林(幕府)。
それは交易を切っ掛けとしたものでした。
林は交易を断固として拒否します。
1854年 日米和親条約締結 交易の制限が厳しいものでした。
17:27頃 ペリーと林との外交交渉、
お互いの健勝を讃え、最後はこんなやりとりで終わっています。
「貴国の厳しい国法をを伺っていたが、このような親睦の誓いを結ぶことが出来た。
今後日本が外国と戦争にいたったときは軍艦大砲を持って加勢するつもりである。」(ペリー)
「ご厚意かたじけない」(林)
日米和親条約の段階では日本は開国していないことは間違いない。
鎖国政策を維持できた。
むしろ通商を押し返して和親に押しとどめたことは外交上成功だった!
孝明天皇もお喜びになられたとのことです。
「日本人がひとたび文明世界の技能を手に入れれば強力なライバルになるだろう」 ペリー
2)日米修好通商条約
1856年 タウンゼント・ハリス
日本側 岩瀬忠震(ただなり) 幕府高官
当時の幕府は二つに分かれていました。
1.攘夷派= 従来通り、貿易を拒否して外国を徹底的に打払うべきだ
2.開明派= 日本の今の軍事力では欧米列強にはとてもかなわない。
貿易で利益を得てそのお金で軍事力をつける。一刻も早く開国をして将来にそなえなければならない。
開明派の中心、岩瀬忠震。
年貢に頼っていた幕府の財政を見直し、貿易による収入で賄うために岩瀬が提案したのが横浜開港でした。江戸時代の経済の中心は大阪。貿易の利益を幕府に集中できるようにしたい…そこで江戸・横浜圏で政治と経済の中心がおかれるとなると幕府にとって非常に都合がいいのです。
横浜を大阪に並ぶ経済の中心地として構築する。
しかも横浜には、開国による混乱を最小限に食い止める狙いもあったのです。西洋人を一定の区画に閉じ込めておく、巨大な出島としての役割を持っていました。
交渉開始
35:47
京都は断念したハリス。
しかし、日本最大の経済圏である大阪は譲りません。
「大阪で貿易できなければ利益は10分の1」
岩瀬は大阪開港で攘夷運動がに火が付き内乱が起こる危険性を逆に利用したのです。
「内乱がおこるのは外国との戦争がおこるより恐ろしい。
諸外国がこの件を理由に日本と戦争しようというのなら我々も全力で応戦する覚悟だ」
その気迫におされハリスも大阪をあきらめます。
開港地は、当初ハリスが要求した10ヵ所から5港(横浜・長崎・新潟・兵庫・函館)に限定。
兵庫は大阪を断念したハリスに対し、日本側が妥協点として提案した港でした。
後に不平等条約といわれる要因となった領事裁判権(外国人を自国の法律で裁く事が出来ない)と関税自主権(関税を自国で決める事が出来ない)の問題、岩瀬の想定では、十分対処できる事だったといいます。
*領事裁判権に関しては、外国人を居留地封じ込めに成功することによって問題無し。
*関税自主権も当時の取り決めは20%ですので、どう考えても不平等ではないのです。
「岩瀬は機敏で反論が次々出てきた…私は答弁に苦しんだばかりではなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった」 (ハリス)
私達が岩瀬から学べるものは何ですか?
志を持っているかどうか。
そして、(マジョリティー)世論に抗してでもその志を貫くことができるかどうか。
強い意志を持つことの大切さ。