白村江の戦いと大東亜戦争(太平洋戦争) | 日本が良くなりますように

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聖武天皇の頃の天然痘の大流行と今のコロナウィルスを重ねあわせ、ずいぶん古いですが思い出した記事があったので再UPします。天然痘も一説によれば大陸からもたらされたとか…

 

前回 2016-03-30 20:43:45 リメイクして再UP

 

日本はその有史において海外との戦争に敗れた経験は二度だけ。

そのうちの一つは大東亜戦争(太平洋戦争)そしてもう一つは白村江の戦いです。

 

白村江(はくすきのえ)の戦い 663年

 

は日本VS新羅ではあるが、実際は

日本・百済 VS 新羅・唐 の戦いであった

倭人・倭人系朝鮮人 VS 支那系朝鮮人・支那

(新羅も倭人が建国したと言われていますが途中から支那系の支配となり変質しています)
 

この時代は結構重要なポイントではないかと…
 

この白村江の戦いは あの大東亜戦争(太平洋戦争)と 同じぐらい日本の危機であったと言われています。

 

朝鮮半島の最南部に任那という国がありました。

それは日本の分国で大陸の脅威からの緩衝(かんしょう)地帯であり、

最前線でもあったのですが、

百済からの無茶な要求や新羅の侵略などから任那は滅んでしまいます。

それで、大陸の脅威が直接日本に迫ってきていたわけですね。

 

親日国であった百済が消滅してしまうとさらに日本に対する脅威が増します。

百済からの救援を受けて日本は兵を送ります。

結果は、白村江の戦いで日本は負けました。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)で負けたために日本は自国の良い部分を捨て欧米化し、自虐史観を植え付けられててしまったように

当時、白村江の戦いで負けたことによって日本は自国の文化をさげすみ、外国(支那)の文化を積極的に受け入れたとも…

 

時代は少し下りますが、聖武天皇の正倉院を見て頂いたらわかるように、当時も現代と同じように非常にグローバル社会だったんです。

 

国を統一し国力をあげるための必要悪だったとはいえ、あまりにも中国化してしまったかもしれません。

今となってはどれだけ変わってしまったかは推し量るしかありませんが。

 

ヲシテ文字の研究をされているびーちぇさんのサイトによると

 

すでに、この白村江の戦いの少し前、蘇我氏の頃、焚書、禁書により多くの貴重な書物が消えていきました。そして、その後…

 

引用 http://julian.way-nifty.com/woshite/2013/12/post-ee59.html

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仏教が普及するにつれて漢字もしっかり定着していきました。
公文書は聖徳太子の頃から、すべて漢文になったことですし、
漢字読み下しという新技法(翻訳法)まで発明されていたのです。

 

文章はほとんど漢文のまま(正確には和漢文)ですから、
上流階級の三割以上の渡来人との意志疎通にも、
中国との外交にも、大変役に立ちました。

その後、ヤマトコトバの音通りに、 似た漢字を一字一字当てはめ書くやり方も流行、
和歌を中心に、カタカナ・かなの独自な字も成立したことから、
日常生活にもさして不便はなくなりました。
「万葉仮名」といわれるものが、それです。

 

そして紀元800年ごろを過ぎると、

「我が国には漢字以前には文字が無かった」

という説は見事に定着したのです。

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https://ameblo.jp/lovejapanmuch/entry-12346829508.html

 

白村江の戦い(663年)で日本が敗戦したあと、実は唐が日本を占領していたと言われていたという説があります。

 

<日本が白村江の戦いに敗れ、唐に事実上占領されいた>

 「日本書紀」天智天皇の条より

1)白村江の敗戦後、日本へやってきた唐の使節団の人数が665年のときは254人だったのが、668年と669年には2000人にふくれあがったとされています。

        

2)667年に九州の太宰府が「筑紫都督府」という呼び名に変わっています。

〝都督府〟という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」と称した例をみてもわかるように、唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしています。

 

3)天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出しました。

 

4)この時代以降、日本の都城や古墳の設計単位がそれまでの高麗尺から唐尺に全面的に改めさせられています。

 

太宰府が第二次世界大戦後に皇居前の第一生命ビルに置かれたマッカーサーのGHQと同じようになっていたというのです。戦後の日本が英語使用を強要されたのと同じように、いやそれ以上に、白村江の敗戦後は漢字使用を強制されていたとも

 

秦・漢帝国以来の支那の諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、支那の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊しました。

漢字以外の文字で書かれた他民族の記録を抹殺し、他民族を従属していくやり方の最も顕著な例が秦の始皇帝による"焚書坑儒"です。

 

(出典 高橋良典)

 

※ 今の英語教育ブームは当時の漢字ブームを彷彿とさせます。文化破壊は言語から。

   英語も良いけど、日本語を優先させましょう。




 

任那・加羅というのは朝鮮半島における日本府であり、大陸からの侵略に対しての緩衝地帯でした。

その任那、加羅は562年以前にすでに新羅に滅ぼされていました

消される日本府任那

(今では教科書から任那は消されてしまっているようです。隣国に配慮して。 wiki

 

その後、唐は高句麗を(644年,661年,667年)、3度に渡って侵攻を重ね征服しました。

唐は新羅を冊封国として支援します。

新羅は積極的に唐化政策を採用するようになる。

 

648年頃から唐による百済侵攻が画策。

659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整えた。

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新の最中の倭国内部でも警戒感が高まった。

倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。

 

 

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。

 

その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年 に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。

 

この敗戦により倭国は領土 こそ奪われなかったものの、朝鮮半島での権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。

 

下記に示すとおり、唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、

天智天皇の時代には近江令、法令群、天武天皇 の代には最初の律令法 とされる飛鳥浄御原令

の制定が命じられるなど、律令国家 の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本 」へ国号 を変えた。

 

白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。

 

 

以下はねずさんのブログより

こちらでも白村江の戦いを詳細にわたって知ることができます。白村江の戦い

20160224 落花岩から身投げする宮女たち_th

上の絵は、錦江のほとりにある扶蘇山にある皐蘭寺(コランサ)というお寺にある壁画です。

 

これは660年の百済(くだら)滅亡の際、

略奪、殺戮、強姦などほしいままにする

新羅の軍勢の前に、貞操を守るため落花岩から百済の宮女達が錦江(白馬江)に身を投げたという伝説を描いた絵です。

皐蘭寺は身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられた寺です。


百済の人々は、国は朝鮮半島にあり、国名も百済ですが、王も人も倭人です。


高句麗や濊族と血が混じった新羅などに対する緩衝地帯として、

上古の昔に入植した倭人たちの末裔が住む国が百済です。


ですから百済人は、いまの韓族とは人種民族が異なります。
そして百済も新羅も倭国に朝貢していた国であり、国王の息子(跡継ぎ)は倭国に住んでいました。
ところが新羅王の息子が新羅に帰省したとき、新羅は突然兵を挙げて百済を攻め滅ぼしたのです。


日本は、その百済の復興のために、兵をあげました。
そしておよそ3年半にわたる戦いの末、最後に

白村江(はくすきのえ)の戦いの敗戦によって、日本は半島から完全撤退しています。

この百済救援の戦いは、実は古代における東洋社会最大の戦いです。

このときの兵力は、日本/百済連合軍が、4万7000、
対する新羅の兵力は5万でした。

 

つまり、兵力はほぼ互角で、兵力が互角なら、故郷を取り返したいと強く願っている百済兵と、いざとなれば強力な威力を発揮する倭国兵の勝利は確実なものでした。

 

強制徴用されていて、単に脅かされて兵に仕立て上げられている新羅兵とは、その強さのレベルが桁違いだったのです。
ですから新羅に対して十分勝てるはずでした。

 

ところが新羅は、あろうことか唐に援軍を頼みました。
唐が新羅に派遣した兵力は、13万の大軍です。

 
新羅の兵力と合わせると、なんと18万の大兵力です。
倭国・百済連合軍の約4倍の兵力となったのです。

古代の戦は、兵力勝負です。
武器は基本的に弓矢と手にした刀剣類ですから、単純に兵力の大きい方が勝ちます。
兵力に劣る倭国・百済連合軍は、あきらかに不利な条件下で、それでも3年余りを戦い抜いたのです。
 
けれど衆寡敵せず、最後は白村江で敗れ、倭国軍と百済遺民軍は日本に引き揚げました。
そして日本は朝鮮半島での権益を喪失し、さらに自国の兵力に数倍する唐軍への対応のために、国防体制、政治体制の抜本的変革を余儀なくされたのです。

こうして近江令法令群が策定され、飛鳥浄御原令が制定されました。
そしてこのとき、倭国は「日本」と、国号を変更しました。

国号の変更は、もちろん支那が書いた「倭」の文字を嫌ったということもあったことでしょう。
けれどもしかすると、いつまでも百済難民、在来の倭人と区別差別するのではなく、百済難民も在来の倭人も、ひとつ屋根の下でともに仲良くやっていこうではないかという思いがあったのかもしれません。
 
では新羅のその後は、どうなったでしょうか。
もともと唐が新羅と手を組んだのは、いまでいう北朝鮮のエリアにあった高句麗への侵攻に際して、唐から見て高句麗の向こう側にあった新羅と手を組もうという意思があったからです。
そして唐は新羅と手を組むことによって、666年には高句麗へ侵攻し、668年には高句麗を滅ぼしています。

ところが新羅は、もとの高句麗に派遣されていた唐軍に対して、嫌がらせの数々を行い、あからさまに追い出そうとしました。
新羅はこのとき、元の高句麗の土地においては、唐の兵に対して、ありとあらゆる嫌がらせをするのですが、その一方で唐本国に対しては、ひたすら土下座して降伏外交をしているのです。
つまり二枚舌です。

新羅は、かつての三韓時代においても、日本の朝廷に恭順しながらも、一方では百済を攻め、任那を攻めていました。
(※任那は朝鮮半島における日本府)
 
そして百済や任那が滅んだあとは、唐と一方で組みながら、一方で唐軍に対して、嫌がらせを続け、ついに675年、新羅は「唐の冊封国(属国)」となることで、朝鮮半島を統一しています。

朝鮮半島の統一は、これが史上最初の出来事となります。
ここで朝鮮半島にとって不幸だったのは、「裏切りと不実」そして「二枚舌を駆使」の王朝が、半島の首となったことです。
7世紀という、世界中の国家というものの幼年期において、こうした裏切りが政権を担うことになったということは、たいへんに不幸なできごとです。

「三つ子の魂、百までも」という言葉がありますが、人も国も同じです。
国や民族が形成される幼年期に形成された性格は、その国や民族の性格を完全に決定づけます。
実際、新羅の二枚舌外交と裏切りは7世紀の出来事ですけれど、かの国は21世紀になったいまでも、その性格は何ら変わるところがありません。

「日本なんて、なくなっちゃったっていいんだよ」と、無責任なことを口走る馬鹿者が、いま日本の政治家や言論人の中に数多くいます。
彼らは、日本が冒頭の絵のような不幸を生むことが望みなのでしょうか。

冒頭の落花岩の宮女たちの絵は、1300年前の出来事です。
けれど千年以上昔のことだからと、笑うわけにはいかないのです。
なぜなら、同じことが終戦の復員のときに、起きているからです。
絵の右端には、女性たちを追い込む唐・新羅の軍勢が描かれています。
要するに支那人と韓族です。

1300年経っても変わらないということは、あと千年経っても変わらないということです。
だから、日本には国境があるのです。