私のお墓の前で泣きたいなら泣けばいいけども。
ほぼ親戚が亡くなってお墓が建てられる経験が初めてなもので、さほど親しくはなかった故にそう悲しくもなかったけれど、人の悲しみには当てられて大号泣していた。我ながら理解には苦しむが、そもそもそういうものなのだろう。でも故人の為にお墓が建てられるのは良いね。故人がどんな場所に葬られようと構わないとは思わんでもないけれど、自然豊かな土地に墓を守ってくれる人が居て、一人しか入っていないってのは羨ましさすらも抱ける。死後に悠々自適ライフが待っているのならば、という話にはなるけれど故人を弔う営みだ。もう二度と会えない悲しみは分かるけれどさ、誰にでもいつ何時でも訪れるものだし故人には救いともなり得るしそんなに悲しまれてもさ。私が死んでも逞しく生きて欲しいな。悲しめと思うような人に悲しむ必要は無くて、そもそも死後に認知できない可能性の方が高いはずだ。お墓を目の前にして、故人が眠っているという表現にはしっくり来なかった。そこにあるのは遺族の想いを形作る立派な石で、死者を弔って故人を悼む為のきっかけみたいな概念。そのくらいは悲しむのが一般的であり、そこでこんな思想を抱く私は部外者だと思わされた。故人が望まなくとも悲しいものは悲しくとも、生きる気力まで失うのは人と して愚かだ。決して分からなくはないけれども、今の私には寄り添えない。応援された所で前を向けないとすれば、人々が進む道を見せて気付くのを待つのが精一杯。助けて欲しいのなら手を貸すが、助けを乞えぬのならまた愚か。愚かだっていいよ、ただ足は引っ張るなよ。てか私、今日誕生日なんだけど。