宿命。
酸いも甘いも、良いも悪いも宿命だ。私はかれこれ十年、宿命論者をしているのだが今になって心境の変化があった。まずはそれについて書き残そうと思う。人生は前世から定められている、という思想が宿命論。それを前世の行いから定められているのか、生まれるよりも前から定められているかなんて解釈はさておきだ。かつてはどうしようもないを認める為の言い訳だったのだが、今では足掻かなくても得られる恩恵こそがその本質に思える。私には恋焦がれた女性がいて、とことん親しくなりたい一心で「二年間だけは親友だった」と言われるほどに足掻いていた。そうして足掻くのも二年だけなのも、親友以上でも以下でもないことだって宿命だ。もちろんこの先の人生も然り。この程度で足掻き切れたと思うのも、この瞬間に気が付くのも宿命ではあるが、足掻かずとも幸福を得られるってのもまた宿命だ。そして人生には波がある。幸、不幸や苦楽には大小があって、高い理想を掲げればその反動も大きくなる。足掻く苦しみが募る度に報われた喜びも大きくなるが、苦しまぬよう逃げた先にだって喜びは訪れる。責めるべきはその喜びに固執する己や小さな喜びを軽視する己だ。「人生の波はブランコのようなもの」と言っていたのは誰だったのか忘れてしまったけれど、きっとどこかの賢い人だろう。自分で波をコントロールする意識が大切。波に揉まれれば疲れてしまうし、波を知らないことにはコントロールもままならない。自分の乗れる波、乗りたい波があって人の相性とはお互いの波への憧れや敬意だろう。プロは大きな波にも乗れるが、それだけが幸福だとも言い切れない。それは乗れない波に食らいつき、成長を志してみたり挑戦すらも楽しくなったり。乗れる波を存分に楽しんだり人を波に乗せてみたり。宿命論に出会った当初は、何もかもを宿命だと理解して友達はバカにしたものだ。私だって盲信してはいない、ただ理解しようと努めていたに過ぎない。これを嘲笑することも宿命だが、私には嘲笑する意味がわからない。全てが宿命によって定められているのだから、失敗を臆する必要がなくなる。これだけで十分なほどに素晴らしい思想ではなかろうか。その失敗が他者に迷惑をかけたっていい、後に挽回しようとせず開き直るのが問題であって、故意に失敗して迷惑をかけるのも問題。失敗を防ごうとするのも宿命で、挽回する為に悩むのも宿命。怠るのも宿命だが、それを許容すればツケは回ってくるものだ。あくまでも善人で在ろうと、高みを目指そうとする者に打って付けな思想なのかもしれない。だが悪人や怠惰な者にも論ずる権利はあって、前提が異なれば相容れない。等しく宿命論者であっても異なる正解を持つ故に、発展が望めるのではなかろうか。全てが決まっているからと諦めるんじゃない、だからこそ頑張れるんだ。頑張るために怠けるのも時に必要な宿命なんだ。気分屋を肯定する言い訳に他ならないが、己を否定して苦しまない方がずっと楽に生きられるだろうし、楽に生きれば他者を思いやる余裕が生まれる。苦しみは美しくも見える、けれど自ら積極的に苦しむのは不要だ。どんな苦しみがいつ訪れるのかも宿命なのだから、その瞬間に備える方がよっぽどいい結果が得られるだろう。故に力まず、身構えず、ただ静観してその時に力めるようにだけを心がける。やった方がいいことなんて続けられる程度で構わない。運がいい人ってのも似たような思想に感じる。ただ言語化が苦手だとか言わないだけで、場面ごとの緩急や捉え方が上手なのだろう。私には納得ができないけれど、恵まれているで片付けても十分。真面目にひたむきに生きれば恵まれる、ただそれを享受できるかは自分次第といった所で。