緊張ってなーんだ。
「たば拗くんは緊張する?お義父さんは何日も前から考えては緊張しちゃって、ダメだね。」私は少し考え込んでから「その場になると緊張してますが、あまりしない方なんですかね?」と返した。まずその場を上手くやる方法がいくつかあり、自分に実現可能なものだけが選択肢となって、その場まで失敗する可能性を減らしたのなら、気を緩めずに心構えをしておく。失敗しないように原稿を作るだとか、その場に合わせたアドリブを想定するだとか、失敗した場合にどうリカバリーするか、とか。ただ完璧にしてしまうと次も完璧を求められ、完璧な人というレッテルを貼られ、その場では良くても後に苦労するかもしれない。まぁ人を相手にするならば、完璧になんてそう簡単にできない故に取り越し苦労だ。完璧を求める必要はなくて、よほどの失敗でもしない限りは無問題とすれば、その対策だけで事足りる。つまりはその場しのぎの準備さえすれば良い。完璧にも失敗はあって、失敗にも完璧な瞬間があるってなもんだ。ダメで元々で、そもそも私なんかが私の完璧を満たせる訳がない。人からはよく思われたいが都合のいい駒になるのは嫌で、まだ青い私には失敗が必要。期待や失望は自己責任でしょう。完璧主義者は完璧という理想を持つ。かつては私も完璧主義者で、それは未だに私の中で存在している。しかし完璧を目指す行為は他者の意向を蔑ろにするに等しい行為であり、他者との関係を悪化させる要因になり得るので大半を諦めた。他者が関係すれば完璧を目指さず、自分にしか関係しないものであれば無理なく完璧を志す。普通に働きながら完璧を貫くだなんて、私には到底叶う訳もなかった。けれど悲観するだけという事もなくて、単純に楽が叶う上に完璧の追求すらもひとつの娯楽とできる。叶わない完璧は嘆かわしくも、完璧を目指せる余白は希望となる。完璧を熟考すれば、様々な要素において別々の完璧が存在することに気が付く。そんな完璧も特定の人に合う完璧と思考すれば形が変わる。つまりはどんな選択にも正解があって間違いがあるのだから、完璧とは観測する者の納得感に過ぎないのである。相手をより納得させる選択こそが完璧であり、相手が複数となればそれぞれの思い描く完璧の中間値ぐらいが完璧ってそんなものは無理だ。そうして一般的から逸脱し過ぎず、如何に肩の力を抜いていられるか。緊張しても対策しても疲れるだろうしさ。私は自尊心は強くも自己評価は低い。故に失敗して然るべきと思えるし、成功したって幸運に恵まれただとか能力が足りていただけで、得手不得手に他ならないように思える。自尊心なんてものは勘違いだし、できることができるだけだから。逆も然りでできないことは背伸びした所で再現性に乏しい、ならばいっそ無理だと思われた方が気楽さ。私には自ら負荷を望む必要はない。望まずとも負荷を感じ、その負荷を取り除くべく四苦八苦してしまうのだから。こうしてブログを書くのだってそうだ。私から見える記事はキリよく改行されるように熟考を重ねていても、他者から見ればどうだか。そもそも文章の善し悪しがあって、言葉選びや題材やタイミングなどを他者に寄り添える訳はないのに、寄り添いたい自分すら蔑ろにせざるを得ないのだから。己を戒め続け、少しずつ成長すればいいべ。