2025年の振り返り。
去年も年末は実家で過ごした。それもほとんど忘れてしまったけれど、母に「高熱で寝込んでいた」と言われて少し思い出せた。もう今年も終わるんだなぁ。先立つ不安はあるけれど、十分に恵まれてはいるからね。肩より長かった髪は耳くらいまで短くなって、まだ部長のお眼鏡には適わないだろうけれど、そのお眼鏡に適う見込みくらいにはなれ。そもそも楽に生きたいのなら坊主一択だよな。私のお洒落は淡い承認欲求であり、自分という素材を活用したアートの側面と、普通では無い私を誤解されぬような予防的な意味を込めたいのではなかろうかと思う。社会がそれを許さぬのなら従属した上で、他の手段を模索できるようになった。と言うよりも私は許される社会を作れなかったんだ。やってダメだったから基本に倣える。そのうち退屈になって遊び出すのは目に見えているが、退屈さは解消するものじゃない。退屈のまま、見方だけを変えて楽しむものだ。髪型で予防線を張ろうだなんて、私もまだまだ甘えたいお年頃なのかな。普通に適う私ならば予防線なんて不要だろうし。虚勢を張る小型犬のようなものよ。そんな無能でもないだろうに、有能のような扱いは嬉しい反面、それに耐え得る能は見せたくないってか有るとは思えない。「たば拗くんも変わったよね」なんて言われ、それも一理あると思えるようにはなった。“お前に何が分かるんだ”と思わない訳ではないけれど、相手や状況を見定めて腑に落とせる。なんでもいいが板に付いてきた。生半可に理解した面をされるのは嫌いだ。でも社交辞令なら受け流せばいい、私の解釈と社交辞令という道具のひとつの“理解”は異なる。理解されるのは気持ちがいいけれど、私の望む理解を叶えてくれる人は数人しかいなかった。その数人以外に理解を望むのは苦痛でしかないのでほぼ諦め、弱い快楽を噛み締める術を模索する日々が最近だな。ジャズを嗜むとか、ゲームやら催しで得られる達成感だとか、知識が活きる快感だとかの為に少しでも勉強や行動を継続する。これらは理解に劣る快楽だとしても、理解と比較せずに悦に入ることで噛み締められる。時に得られる理解の快楽はほとんど麻薬。私によって許さず、摂取してしまったのなら嗜むにしても、また求めてはならない。渇望する時間が人を不幸にするのだろう。来年の抱負も一歩前進だ。その一歩の為に数多の保険をかけるのが私、彼女とそんな話をしたのもつい最近だったな。私は素晴らしい事象を起こせる人間じゃない、けれど最悪な事象が起こらないよう万全な体制を整えられる。その為に必要な暇は割に合っていない、だから人と生きるのには向いている。なんでもいいを活かせたら、素晴らしい事象も起こせるようになるのかな。それで得られる利はどれほどのものか、それもひとつの課題か。あとはスタミナをつける。余裕さえあれば並の精神力を上回るが、余裕がないと無になるのは徐々に精神をすり減らす。これは一年じゃ達成できないだろうけれど。今は足りている体力も、今後を考えれば恐らく足りずに辛くなる。これは一年も取り組めれば多少は改善されるように思える。だが来年の抱負は一歩前進だ。今年はなかなかに忙しかったけれど、私にとっての社会は休息する為の場所だ。その為にスタミナをつけようって営みは悪くないべな?