スピンオフ編~東京都文京区小石川・徳川家康の生母が眠る『伝通院』 | Love Beef Cutlet? Eternal Traveler~生涯旅人

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ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、東京都文京区小石川の『伝通院』です。

 

 

最寄駅は

都営地下鉄三田線/大江戸線の『春日』

または

東京メトロ丸ノ内線/南北線の『後楽園』。

 

 

春日通りを西に約400m進み

『伝通院前』の交差点で右手を見ると

100mほど先に立派な山門があります。

 

 

こちらが『伝通院』

『でんつういん』ではなく『でんづういん』。

 

現在の山門は

2012(平成24)年に再建されたものです。

 

 

正式名称は

『無量山傳通院壽経寺』と言い

室町時代の1415(応永22)年

浄土宗第七祖の了誉上人が

小石川極楽水(現在の小石川4丁目)に開山しましたが

上人の没後いつしか荒廃してしまいます。

 

開山当初は小さな草庵で

『無量山壽経寺』と言う山号寺号で

院号はありませんでした。

 

 

1602(慶長7)年

徳川家康の生母・於大の方が

家康の招きで訪れていた

京都伏見城で逝去しました・・・享年75歳。

 

家康は遺骸を江戸に運び

『智光寺』(文京区大塚)で火葬し

位牌を『安楽寺』(愛知県蒲郡市)に置きます。

 

当初は徳川家の菩提寺である

芝の『増上寺』に埋葬するつもりでしたが

『増上寺を開山した聖聡上人の師である

了誉上人が庵を開いた故地に

新たに寺を建立されるように』と

増上寺十二世観智国師慈昌の進言を受け

現在の地に『壽経寺』を移転し堂宇を建てました。

 

1603(慶長8)年

家康は生母の遺骨を『壽経寺』に埋葬し

現在まで残る墓を建立しました。

 

同時に

『安楽寺』住職から授かった母の法名

『傳通院』に因んで

寺の院号を『傳通院』としました。

 

 

江戸幕府より

寺領約600石を与えられた『伝通院』は

『増上寺』に次ぐ徳川将軍家の菩提寺次所となり

『増上寺』、上野の『寛永寺』とともに

『江戸の三霊山』と称されるようになります。

 

本堂は

20世紀初頭までの三度の大火と

1945(昭和20)年の米軍の大空襲で4回焼失し

1949(昭和24)年に再建されました。

 

現在の本堂は戦後二度目の再建で

1988(昭和63)年の建立です。

 

 

本堂に安置される本尊は

平安時代の僧・源信の作とされる

阿弥陀如来像です。

 

 

本尊の向かって左には

無量聖観世音菩薩像が鎮座し

『江戸三十三観音』の第十二番札所になっています。

 

 

本堂の地下には

小さな展示スペースがあり

於大の方と家康ゆかりの品が並べられています。

 

 

竹千代産着の鎧

 

1542(天文11)年12月

於大の方が岡崎城内で

竹千代(後の家康)を授かり

実家の緒川水野家が初節句に用意したもので

こちらはそのレプリカです。

 

 

於大の方木像の写真

 

木像は

京都の知恩院に

家康、二代将軍秀忠(家康の三男)と

並んで鎮座していますが非公開です。

 

於大の方は

尾張国知多郡の豪族水野忠政の娘で

1541(天文10)年に

三河で勢力を振るっていた松平広忠に嫁ぎ

後に家康となる竹千代を産みますが

諸般の事情(複雑なので割愛)により

1544(天文13)年に離縁されます。

 

1547(天文16)年には

知多郡阿古居城の城主久松俊勝と再婚し

3男3女を儲けますが

家康との音信は絶えず取り続けていたそうです。

 

 

本堂の裏手には墓地が広がり

徳川家の女性や子供が多く埋葬されています。

 

 

中でもひときわ目を引くのは

やはり於大の方の墓です。

 

 

1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの後

今川氏から独立し織田氏と同盟した家康は

於大の方の夫である久松俊勝と

息子3人に松平姓を与え家臣とし

於大の方を母として迎えます。

 

生後間もなく生き別れになったものの

家康の於大の方への愛が

一方ならぬものであったことは

この立派な墓所で一目瞭然です。

 

 

於大の方の墓所の並びには

二代将軍秀忠の娘である

千姫の墓があります。

 

於大の方の墓所にはありませんが

こちらは石の柵と鳥居のようなもので

結界が張られています。

 

 

墓石に前にも結界が張られています。

 

 

こちらは孝子の墓所

 

三代将軍徳川家光の正室だった孝子は

公家出身のため武家の生活に馴染めず

家光との仲は結婚当初から非常に険悪で

実質的な結婚生活は皆無でした。

 

結婚後まもなく

家光から事実上離縁され

『御台所』の称号も剥奪されてしまいます。

 

 

大奥からも追放され

江戸城中ノ丸に新たな御殿を与えられ

長期間にわたる軟禁生活を強いられました。

 

家光が死去した際に

孝子に形見分けとして与えられたのは

金わずか50両といくつかの道具類だけでした。

 

1674(延宝2)年に73歳で逝去しますが

墓所は将軍とその正室が眠る

芝『増上寺』でも上野『寛永寺』でもなく

この『伝通院』に作られました。

 

 

このほかにも

六代将軍家宣の三男大五郎

八代将軍吉宗の二女芳姫など

徳川家の墓所がいくつもあります。

 

 

最後になりますが

徳川家とは全く関係ないものを

一つご紹介します。

 

参道脇の木立に設置された『指塚』

1970(昭和45)年に

『日本指圧協会』が亡くなった

指圧師たちを功徳するために建立したものです。

 

建立時の会長は

日本の指圧療法の創始者と言われる浪越徳治郎氏で

『天才・たけしの元気の出るテレビ!!』を始め

テレビドラマやバラエティに数多く出演し

『指圧の心は母心 押せば命の泉湧く』の名言と

『アッハッハッ』の豪快な笑い声で人気を博しました。

 

 

『伝通院』にはこのほかに

興味あるものが数多くありますが

長くなりますので本日はここまでにしておきます。

 

伝通院

東京都文京区小石川3-14-6

 

次回は、本日15時に他人の迷惑を顧みず私の好きな曲をご紹介するMUSIC編。今回は、Fire Inc.の『Tonight Is What It Means to Be Young』です。