昨日、久しぶりにばーばを耳鼻科に連れて行きました。
以前にも増して、聞こえが悪くなっており、デイでも隣の人と会話が成り立たなかったり、歌を歌う時もズレていたりしていたので、せめて耳掃除だけでもと思い受診しました。
以前受診した時に、
「認知がある人には補聴器は無意味」
と言われ、あまり印象が良くなかった病院。
でも、家から近いし、耳掃除だけだからと思い連れて行ったものの、やはり疑問を感じる結果になりました。
聴力検査をしたものの、聴力が測れなかったとのこと。
「認知症が進んでいるので、聴力が測れませんでした。」
いやいや、私としては、聞こえが悪くなっているので、聴力検査の指示が理解できなかったと思うのですが。
悶々とした気持ちのまま、今朝デイサービスに送って行った時、いつも受け入れてくださる職員さんに、耳鼻科でのことを話すと
「認知が進んでいるなんてことは、無いですよ。」
「確かに聞こえは悪くなっていますが、耳元でゆっくり話せば理解してくださいますし、ちゃんといろいろ理解されてますよ。」
とのこと。
その言葉に安心し、一日仕事ができました。
娘だから、どうしても贔屓目にみてしまうことはありますが、父と違い、病的な認知症とはどうしても思えません。
帰宅後、ダイニングテーブルにノートパソコンが置かれているのを見て
「◯◯ちゃんは、今日ははよ帰って来たんだね。」
と言いました。
◯◯ちゃんは、うちの旦那の名前。
今日旦那は、一度家に帰って、少し仕事をしてから、名古屋ドームにお客さんと一緒に野球観戦に行っています。
パソコンがある。
それは、旦那のもの。
それがダイニングテーブルにあるということは、旦那が家にいるということ。
それだけ理解できていれば、充分だと私は思います。
普段から、ばーばと接していない病院の先生は、一般的な図式に当てはめて判断されるのでしょうね。
確かに、早めに補聴器を使用しなかったことがいけないのだと思います。
それは、介護している私の責任ですか?
糖尿病が悪くなれば、同居で介護している娘のせい。
早めに補聴器を使用させなかったのも、実の娘の私のせい。
早めに人口関節の置換手術をしなかったのも、実の娘の私のせい。
なんだか病院を受診するたびに、責められているように感じてしまいます。
私は、自分にできることを、できる範囲で充分やっていると思っていますが、どれだけやれば認めてもらえるのでしょう?
実の娘は、自分の人生を生きることなく、親の介護のために、すべてを捧げなくてはいけないのでしょうか?
もう、病院に連れて行く気になりません。
こういうと、虐待・ネグレクトと言われます。
高齢者専門の病院、すべての診療科に精通している医師、常に家族の味方になってくれる医療従事者はいないのでしょうか?