ナチュミンジャパンの社長、車つとむ が、若者の悩みに親身に答えます!就職の悩み、婚活の悩みなどなんでも相談に乗ります。 -2ページ目

音楽に触れる生活は、子供の頭をよくする



音楽に触れる生活をしている子供は、頭がよくなるという研究が、欧米でたくさん発表されています。
例えば、アメリカのノースウエスタン大学での6~9歳児の研究では、音楽を学んだ子供は言語力や読解力、集中力にとって重要な音声処理能力が大幅に向上し、学業成績も良くなった、とされています。
いよいよ「芸術の秋」到来。
子供に限らず大人も、生活の中に音楽をとりいれると、頭脳をクリアに保てるかもしれませんね。

韓国は日本を敵国として位置付けている?



国とメディアによる国民の反日洗脳が中国よりも徹底している韓国は、日本を軍事攻撃する体制も整えています。
インターネット上には、「日本を地球上から消し去れ!」という書き込みも、よく目にします。
 韓国は陸上発射型の巡航ミサイルを配備していますが、これは対北朝鮮には射程が長すぎて不必要な射程距離1500キロで、日本を破壊するために必要な距離です。また、駆逐艦や潜水艦には射程400キロの巡航ミサイルを搭載しています。
あの理性を欠いた国民がその狂気で、日本にミサイルを打ち込む可能性は、完全には否定できません。
韓国が、中国との軍事同盟にまで突き進めば、日本は大変な脅威に直面するでしょう。

アメリカは日中の「ほどほどの対立と消耗」を望んでいる


中国の特に人民解放軍の露骨な侵略主義が目につくようになり、政治家や論壇知識人たちで、「日米安保死守」を唱える人たちが、勢い付いています。
確かに、日本には独力で中国に対抗する軍事力はないし、そんなものを持つべきでもありません。だから、アメリカとの軍事同盟が中国への牽制になる、という理屈は、一見、もっともらしく見えます。
しかし、この人たちはウソつきか間抜けです。
アメリカは、第二次大戦の日本敗戦後に日本を占領して以来、日本がアメリカの子分として振るまい、決して反抗することのないよいに、軍事・金融・政治・産業・教育・マスコミなどの分野で、徹底的に日本をコントロールしてきたのが、歴史の事実です。
中国と日本の関係も、多くは、実はアメリカのコントロール下にあります。
アメリカは、中国にも日本にもアメリカに単独で対抗するような国力をつけさせないようにしてきました。だから、日本と中国が対立するように煽り、軍事費を使わせ~日本にはアメリカの兵器を買わせ~国力を消耗させるように巧妙に操ろうとしています。
中国が完全に経済崩壊して、アジアを日本に牛耳られることは、アメリカは許しませんし、日本か中国の属国になることも認めません。
このようなアメリカを日本の都合のよいように利用できる日本人が産まれる日が来ない限り、日本はアメリカの子分として、する気もないケンカのポーズをとらされる歴史が続くのでしょう。

心神喪失者による刑事犯罪の償い



極悪非道な殺人がなされても、その犯人が心神喪失者であると判定されると、彼/彼女は罪に問われないのが、現状です。近年、よく見かけます。
これは、刑法39条に「心神喪失者の行為は罰しない」とあるからです。心神喪失者は、まともな一人前の人格ではないので、自分のしたことの責任を負わせられない、という思想が背景にあります。同様に、人格が半人前の児童による犯罪も、似た扱いになります。
しかし、これだけでは、例えば、殺された人やその遺族や知人は、何の償いもされず、不条理な悲劇をひたすら耐えて、受け容れなければならないことになります。
全く癒されない魂が放置されます。
私が思うに、確かに、心神喪失者に正常者と同じ刑罰を課すのは、無理があるでしょう。しかし、全く無罪放免というのも不条理です。
罪が軽ければ社会奉仕活動などを課し、殺人者などは終身の隔離などを強制すべきです。
心神喪失者であっても、その身体が加害した事実の重みをその身体にしっかり受け止めさせる必要があります。

国連の「敵国条項」の対象になったままの日本

国連の「敵国条項」の対象になったままの日本

日本の政府も学校もメディアも、まともに日本人に教えてこなかったことがあります。
国連憲章において、日本は未だに「敵国」とされて、再び侵略戦争を起こしそうな気配があれば、国連安全保障理事会の承認なしに、各国は日本を武力攻撃してよい、とされています。
詳しくいうと、「敵国条項」といわれており、国際連合憲章の条文のうち、「第二次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国)に対する措置を規定した第53条および第107条と、敵国について言及している第77条の一部文言を指します。
特に、第53条第1項後段(安保理の許可の例外規定)は、第二次世界大戦中に「連合国の敵国」だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して軍事的制裁を課すこと(制裁戦争)が容認され、この行為は制止できないとしています。
大国志向の政財界・言論界の連中が、調子に乗って、第二次大戦で敗戦した反省を捨てて、軍拡を進めれば、いずれこの「敵国条項」を持ち出す国が現れるでしょう。
日本がなすべきは、平和志向の国作りを徹底して、この「敵国条項」を削除してもらうように、国連でアピールすることでしょう。

憲法9条を考えた人々と「押し付けられた人々」


日本の論壇や政界で、「憲法9条は、占領していたアメリカが押し付けた」という主張が戦後ずうっと見られます。
憲法9条の発想は、在野の学者や社会運動家に以前からあったという背景的な事実はわきに置いても、この「押し付け」論はウソです。
例えば、占領軍の総司令官であったマッカーサーの米国議会での証言記録を見ると、戦力と戦争放棄を憲法に記載したいと最初に言い出したのは、当時の首相である幣原喜重郎とされています。
幣原は、戦前日本で軍の暴走に批判的な外交官で、ワシントン軍縮会議で活躍し、当時の軍部の怒りをかい、公職から事実上追放されましたが、日本の敗戦で復権しました。
このように、憲法9条は、大日本帝国の軍隊の暴走に批判的な人々にとっては、あの過ちを繰り返さないための歯止めとして、自ら発案し、憲法に入れた条項でした。
では、「押し付けられた」のは誰か?
それは、軍部の残党や軍部と結託して生きてきた連中、及びその思想上の子孫たちです。
私は、日本が、国民と世界平和のために自前の軍隊を持つのは必要だと思います。
しかし、そのためには、大日本帝国時代の政治・経済・軍の悪行と暴走を国民が徹底的に批判し、かつてと同じ愚を決して繰り返さない思想的・制度的な歯止めを定着させることが前提と考えます。
今の自衛隊の根本的な問題は、アメリカの下請け軍隊として「アメリカから押し付けられた」まま、今に至っていることであり、真の国民と世界平和のための軍隊として、運用できない点にあります。大勢の勇敢で聡明な自衛官が頑張っている現実を見ると、実に残念です。

米軍の下で世界中で戦争をする自衛隊


安倍政権が、日本国憲法の下でも集団的自衛権を行使できるとの、滅茶苦茶な「解釈改憲」をした目的がはっきりしました。
最近、「日米防衛協力の指針(いわゆるガイドライン)」の改定作業の中間報告がありました。
そこではなんと、自衛隊は世界中どこでも米軍の戦争を補助すると決められています。
アメリカは、侵略戦争ばかりしてきた国です。ベトナムしかり。イラクしかり。この侵略戦争の軍隊に自衛隊も取り込まれ、自衛隊が世界中で戦争をする可能性が現実のものとなります。
戦争をするということは、相手の国から、日本にミサイルが撃ち込まれたり、テロ攻撃をうけることも普通に起きます。
アメリカの手下としてはたらかされ、あげくの果てが日本への攻撃、そんな事態に安倍政権は日本を陥れました。

人は「関係の交点」として「存在」する(続)



前回の続きです。
人間という存在は、人やモノやコトとの関係の交点として自分は何であるかの内容を与えられます。
(ですから、本質は情報であり、肉体は情報の媒体です。)
これを逆に「交点としての個体」側からみれば、個体の変化が関係する人やモノやコトに影響を与える、ということを推論できます。
だから、「自分が変われば世界が変わる」とも言えます。
もちろん、複雑な諸関係への作用ですから、自分の意図通りに世界が変わるとは限りませんが、何らかの影響を与えることは、間違いありません。
また、関係における影響は、作用と反作用で生じるので、例えば、あなたが周囲に優しくすれば、周囲からも優しい対応が返ってきます。この意味でも、「まず、自分を変えてみる」ことは有効です。

人は「関係の交点」として「存在」する



本日は、哲学的なテーマについて書きます。
私たちは日常、「自分」を固定的な実体のように思い込みがちですが、実は固定的な実体としての自分なぞ、存在しません。
これは、ちょっと考えてみれば分かります。身体を構成する細胞は消滅と生成を繰り返し、頭脳に浮かぶ思念は儚き水泡のように、弾けては生まれています。ですから、例えば、昨年の私と今の私は、身体や思念が同一ではありません。
私たちの「自己同一性」は、私たちが「そこから変化してきた記憶」によってのみ、保証されています。
では、その「記憶」はいかに発生するのか?
記憶は、他者~人やモノやコト~と接触することで、生まれます。他者に触れない意識は、単なる意識としてある内容のない形式となります。
他者と接触するということは、換言すれば、他者と関係を結ぶということです。
他者は、目前の他者だけでなく、背後や周囲に、過去から現在まで無数に連鎖していますから、私たちは、他者との関係の交点として存在している、とも言えるでしょう。
他者との関係の交点としての「私」の内容は、従って、交点の内容として定義できます。というか、「私」は、関係の交点の内容としてしか定義できません。
さて、となると、「死者」とは何か?について新しいみかたができます。
「死者」とは、他者との関係性を完全に無くした状態です。逆に、肉体が消滅しても、他者との関係が残っていれば、すなわち、他者の記憶から消え去らなければ、その人は消滅したことにはなりません。
死者を思いだし、祈ったり、供養したりすることは、死者を消滅させない意義を持っているのです。
これが、論理的な帰結です。

★なお、さらに詳しくは、拙著「マインド・アーキテクチャ概説」(マインド・アーキテクチャ協会発行)をご参照下さい。

護身術を体得する必要性



義務教育が暴力の扱い方を教えなくなって久しい一方、狂気に囚われたようなおぞましい傷害や殺人の事件が絶えません。
また、痴漢などの性暴力の事件も、頻繁に起きています。
犯罪的な暴力に遭遇した時に、何としてでもその初期状態から脱出して、逃げ延びる術、すなわち広義の護身術を国民皆が身に付ける必要があると思います。
知識とスポーツも大事ですが、生きていなければ無意味です。
私は、毎年、大学の講義の最初に、簡単な護身術を教えていますが、もっと公式の制度として日本中に普及してほしいと、願っています。