わたしは、戦い過ぎていたのかもしれない | サンキャッチャーとキラキラハッピーと私。

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思った事とか、たまにハンドメイドの事とか。。


すごく感情的な文章になる予感です。


感情的なわたしを認めるための
自分のための記事になると思います。。。



わたしは、
わたしと戦い過ぎていたのかもしれない。


善人でありたいという欲求の裏側で
わたしは、いろんなわたしの側面を否定し続けてきたのかもしれない。


情けない自分
みじめな自分
弱い自分
頼りない自分
人に迷惑をかける自分
依存してしまう自分
人を傷つけてしまう自分
人をコントロールしようとする自分
認めてほしいと思う自分
愛されたいと泣き叫ぶ自分
ひどい自分


わがままな自分
感情的な自分
かまってちゃんな自分
寂しがりな自分
おもしろくない自分
ネガティブな自分
自分の正義を人に押し付けてしまう自分
陰湿な自分
暗い自分
「輝いてない」自分
自分を嫌いな自分


どれもわたしの一部なのに。


理想とは対極にある、かっこ悪いと決めつけていた自分の一面を、なかったことにして、見ないようにして、静かに静かに否定し続けてきた。


そうして、ひとのことも静かに裁いてきたのかもしれない。


目に見える暴力ではないけれど、
そうやって、自分をいじめて人をいじめてきたのかもしれない。


心のなかで責めて、否定して、
自分にも周りのひとにも静かに静かに暴力を振るってきたのかもしれない。


そういう意味で本当のわたしは感情的で暴力的で…そんな一番受け入れたくなかった自分の弱い側面を、


蓋をして無視してきた弱い自分を、


わたしは認めて受け入れていきたいと思う。


そうして、わたしのなかの長い戦いを終わらせたいと思う。


どんなわたしもわたしの一部だ。
どんなわたしにも、愛していますと告げよう。無視してきてごめんと伝えよう。



すごく悲しい出来事があった。
すべてはわたしが未熟であるがゆえに起こったこと。


わたしは、未熟な人間なんだということがわかった。


身を切るような苦しい思いが、
そのことをスパルタでわたしの心に刻み込んでくれているかのような感覚だ。


起こる出来事はいいとか悪いとかじゃなく、
本当はすべてが、わたしに大切な何かを教えてくれるための愛で出来ているのかもしれないという不思議な心境になっている。


あーわたしもまだまだだな。